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2007年03月12日(月) 母のつれづれ

土曜は父母が来て、掃除をしたりおにぎりを食べさせてくれたりして、あわただしく帰っていった。母は普段心配性で悪夢にうなされている(夜中に「ヒャー」などと声をあげる)おばちゃんだが、掃除のことになるとすごい。

まず、汚れへの徹底的対峙姿勢。「このくらい、仕方ないわよ」とゴミやほこりをまず認める。さらに、冷静沈着にして緻密。掃除をする前に、掃除機の掃除をしてから畳のゴミを吸い取る落ち着きぶり、そして黒く焦げ付いたガスコンロの銀色部分をぴかぴかに磨き上げるさまは、まさにプロの技だ。掃除における完璧主義は私も思い当たる点があるけれども、同時に彼女がもつ寛容さは、なかなか真似できないといつも感心する。私はほこりだらけの部屋にいると、他のすべてが嫌になって生活がひとつもできなくなってしまうのだ。

思えば一見単なる「ヒステリックおばちゃん」である母の、底に流れる寛容さに、私はしばしば助けられてきた。

母は私をよく褒めた。バナちゃんは文才がある。バナちゃんは運動神経がずば抜けている。バナちゃんは人の話をよく聞く。

同時に、それらの才能なんかどうでもいいから、「健康でいてね」と繰り返し言った。いじめられたら学校なんか休んでいい。陸上大会で優勝しなくたって、10番だって何番だって十分すごい。1番ばっかりとり続けたら、糸が張りつめて疲れちゃうよ。自主勉強だって、たまには休んでいい。元気でいれば、どうにかなるんだからと。

私はほとんど母の言うことを聞かなかった。1番でなければ生きている意味がないと思ったし、みんなに認められない人生なんて、生きている意味がないと思っていた。幼い頃アナウンサーになりたかったのは、毎日みんなに見てもらえて、自分が生きていることを知ってもらえる職業だと考えたからだった。

そうして私は疲れてしまって、高校生になってから髪の毛を染めたりスカートを短くしたり、やる気のない部活に入ったりした。大学生になってからもすっかり勉強しない私を、母は責めなかった。がっかりはしていたけれど、「がっかりよ」とたまに言うくらいだった。

大学時代、お昼前に帰った日は、一緒に『スタジオパークからこんにちは』を見た。おもちを焼いたりパンを買ったり、お昼ご飯は手抜きをして、「手抜きよ」と言った。母はスタジオパークを見てお茶を飲むと、台所からおせんべいを持ってきて、そのまま昼寝をした。夕方になると面倒くさそうに台所に立って、6時半には煮物やコロッケや餃子が出てきた。

当時(19才ごろ)の私は恋愛にはまっていた。私のことを、誰かに好きになって欲しいと思った。辛くて辛くて、不安定で、いつも居場所がない感じがした。思えばあれを思春期と呼ぶのかもしれない。父母のいる家庭はないものとして数えた。戻る場所がないと思って生きるのは、本当に辛い。大学4年のお盆に家でごろごろしているとき、ふっと気付いた。戻る場所は、ここだったと。夜の風が生温くて、幸せだった。

子どもが生まれたら、なんとか育てる自信がある。問題は山積するだろうが、基本は分かっている。戻る場所を、作ればいい。外で何があっても君はここに戻ってくればいいし、戻ってきたくなくても家はここにあると、教えたい。母は「思い通りにいかないわよ」と訳知り顔に言う。「バナちゃんみたいに我が道行く子だと、大変よ」。私は今も母の子である。


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