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2006年11月05日(日) 津和野(島根)に行ってきました

仕事が行き詰まってこのままでは自分がだめになる(←ちょっとおおげさ)と思い立ち、急に切符をとって島根県の津和野に行ってきた。津和野は『なぜかいい街一泊旅行』という本でドイツ文学者(旅好きおじさん)の池内紀が紹介していた場所で、なんとなく、私の好みに合いそうだとピンときていた。

3連休で観光バスも押し掛けていたが、彼らが見るのはほんとのほんとの中心部、しかも数時間だけ。小さな町を少し歩くと、民家もぐっと減り、人影もまばらだ。川がちょぼちょぼと控えめに流れ、山が眼前に迫ってくる。夕暮れ時、昼間は人でごった返していた森鴎外旧宅のそばに、「津和野」という地名の由来になった石蕗(つわぶき)の花がひっそりと咲いていた。










津和野は山陰の小京都といわれるだけあって、寺社も多い。どれも山の中にある。今朝は6時に起きて「永明寺」に行った。朝靄の中、人っ子ひとり通らない階段を登った先に、この地の出身である森鴎外の墓が、ひっそりとたっている。雑司ヶ谷霊園で見た漱石の墓が「夏目家」と書いた大きな墓石であったのと対照的に、鴎外のそれは「森林太郎墓」と案内板がなければ見逃してしまうほど、ありきたりの大きさ、場所にあった。明治の文豪の墓は当然東京にあるものと思っていた。絵にならない地味な墓石にカメラを向けながら、なんだか宝を探し当てたような、不思議な気持ちになった。

それにしても旅に出ると、早起きできるのはなぜだろう。平日は何度も何度も目覚ましを鳴らして、ラジオのタイマーをセットしてようやく目覚めるのに、今朝は自然に5時50分に目が覚めた。体は正直だ。







津和野が和紙で有名だと知ったのは、前述した池内紀のエッセイからだ。彼は和紙づくりの工房を見せてもらったと書いていた。当然、駅に着いたら大々的な宣伝があるかと思ったが、紹介してあるのは安野光雅美術館と鯉がいるお堀のことばかり(どちらもどうってことない……なんて、怒られますね)。

駅から30分ほど歩いたところで、「伝統工芸館」という寂れた建物を見つける。「和紙の製造工程をご覧になりませんか」とさび付いた看板が告げていた。今は観光バスのコースに入っていないのだろう。和紙製品を売る土産物屋ではおばさんが暇そうに店番をしている。

人っ子ひとりいない(また、これだ)その建物に足を踏み入れる。勇気を出して、土産物屋の奥にある工房のおじさんに声をかけた。「ちょっと、見せてもらっていいですか」。封筒にするという和紙を乾かしていたおじさんは、「どうぞ」と慣れた調子で和紙ができるまでの流れを見せてくれた。取材の癖で、驚いたリアクションをしてしまう。和紙の歴史などについて優等生っぽい質問を投げてしまった。本当は、おじさん津和野で暮らしていてどんうですか、とか、普通のことが聞きたかった。おじさんも最初は観光客用の受け答えをしていたが、それでも、時間が経つとぽつりぽつりと本音らしきものも話してくれるようになった。「最近は観光客がこっちまっでこないね。あの鯉のいるとこだけよ」。

和紙の職人は、紙の厚さを毎回均等に出来るようになって一人前だそうだ。ただ「すく」だけなら数年でできるが、それでは売り物にならない。「体験をしていかないか」と言われたが、葉書1枚を持ち帰っても仕方がないので断った。自分が冷たい人に思えて、罪滅ぼしではないが「石州和紙」と書かれた質の良さそうな便せんを、買って帰った。

別れ際おじさんに「後継者はいるのか」と、ありきたりな質問をしてまた後悔する。「数年前にわしがここ休んでたときに、東京から女の子が手伝いに来てたけどね。修行ゆうて。今は辞めてしまって、別の所にいるみたいだけどね」。







旅の間、ずっと須賀敦子を読んでいた。島根とイタリア。これから私が須賀を読む時には、きっと津和野の山と川、オレンジ色の瓦屋根を思い出すのだろう。こういう時間があるから、私はまた生きていけるのだと思う。

昨晩、山の向こうに見えたまん丸のお月様を眺めて、本気で移住を考えた。それなのに今晩、高田馬場で倒れている学生を見たら(3連休は早稲田祭だったらしい)、「帰ってきた」とほっとした。マラバールでカレーを食べて、私は日常に戻る。マラバールのカレーはおいしい。


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