日記
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2001年12月03日(月) お腹が空いて仕方が無いのは何か大切なものが足りないせいだったり

今夜は、日記を書くつもりなどさらさらなかったので、
卒論に集中・・・・・のつもりが結局だれてしまい、無印のバームクーヘンもぐもぐしながらホットミルクのみながら本棚のやたら奥の方から三島の『殉教』引っ張り出してきて結局『スタア』まで読み耽ったところで「きょうはもう寝よう」と思い早めに就寝。
のつもりがとにかくおなかがすいて寝付けず。
「いくら食べても食べてもおなかが空いて仕方がない病」
って誰もが定期的に経験あるんじゃないかと思うんだがどうだろう?
私は現在そんな病気らしい。
ということで冷蔵庫の中にあった豆腐で麻婆豆腐をつくり、
ああ勿論市販のソースなんでたいして美味くもないんですが。
で食べながらこれ書いてる次第です。
食べてすぐ寝るのもあまりに身体(というか胃)に悪いので結局遅くまで起きている事になる・・・・・という悪循環現在午前4時30分。



午後7時頃新聞の集金が来てピンポーンと何度か鳴らされたのだが、財布の中に3千円ちょっとしか、入ってないとわかっていたので居留守を使っておいた。
だってさあ、わざわざ「3千円しかないんですー。」とか言うの、面倒臭いじゃん。でも、その人家の前で7〜8分くらいじぃっと待っていたのでなんだかかわいそうになった。仕事とはいえ。ごめんなさい。でもちょっと微妙に怖かったです。なんだかストーカーみたいで。(失礼)
でもさあ、居留守だってばれていたにせよ、出てこないって事はこっちにも何らかの事情があるってくらいは察してくれよ。金がないとかさぁ。風呂入ってるとかさぁ。あと、他人が留守番してるだけで、当人じゃないから出るに出られないってこともあるだろうし。
まぁ悪いのは私なんですけどね。



最近忙しさを理由に随分と思考が硬化、というよりまぁ「他人に対するおもいやり」ってやつが硬化しているというか。それはもう石のように。
結構前から自覚はあったんですけどね。
最近「うわっ」と思わされることが起こってそれで改めて。
もともと「冷たい」と言われる部分が大きい人間なので、いちいち気にしてはいないんですが。(それが素だから。)それでも、「つくりもののやさしさ」など不要だけれど「本心からでるやさしさ」まで、いっしょくたにして、捨ててしまわぬよう。

つまり相手が私という存在を求めているのを自覚している上で、意図的に拒絶している状態とはいかがなものか、と。 そりゃ結構悪ですよねぇ。
「甘え」から起こっていることなのかもしれないけど。
私自身あまり頼ったり吐き出したり慰めて貰いたがったり、
そういう行為ができない(できるけどしない)人間なので他人にも時として同じレベルを求めてしまったりするんだろうか。無意識のうちに。いや、自覚あるな。

なんか凄い冷徹人間だと思われてしまうのも至極心外なので一応付け加えておくと、「冷たい」と評されること以上に「優しい」という言葉を頂くことは、多いです。まぁ偽善だの何だのぐちゃぐちゃ混ざっての結果。



はぁ。(ため息)



幼少のころ、「わたしもいつかこんなふうに白い骨になって箱に入れられるんだなぁ」という思いを噛み締めた。なんだかとても長い長い箸で、隣の人に渡しながら。その行為には幼い私も少しだけ参加させてもらえたのだ。それでも、実感なんてなかった。「もうこの世には存在しない」という言葉の意味は、素直に受け取って理解していたつもりだったのに。わたしはずっと、「わたしをみていてくれる」という思いが、消えなかった。

だいぶ大人になってから知ったことなんだけど、世の中の人の何割かはわからないけど私の予想よりははるかにたくさんの人たちが、「一度くらい万引きあるいはそれに似通った行為を経験」したことがあるらしい。すこし、びっくりしたり。
私は多分、ごく一般的な、普通の、(普通とかって言葉はあんまりいいもんじゃないけど)「倫理観」はきちんと持っていた。(つもりだった。) そして、人並みはずれてそうした「普通の倫理観」が欠如していた弟。あいつは欠陥商品のように思えて仕方なかった。
正確には、私にもなんとなく欲しいものくらいはあった、と思う。
親になどねだれなかったのだから尚更のこと。
まぁそんな感情論など何度も蒸し返すのは腹立たしささえ覚えるので無視するけど、とにかく今思えば不思議で仕方のないこと。私は、「父親がいつも私をみまもっていてくれる」という気持ちがずっとずっと当たり前のように存在した。うん。こういう話はあまり好まないのだけどあえて言うならば「守護霊のように」いつもそばで、私のそばで、私を見つめて、守っていてくれると。そんなことを。
だから万引きなどしなかった、できなかった、只それだけのことだったのだと今も思ってる。きっとそう。でもそれは自分の倫理観、とかではなく、外側に基準を置いて。羞恥心だとか自尊心だとか。「見られる自分」を意識することでしか物事を判断できなかったのであればそれは酷く滑稽なのかな。


「お父さんに見られて恥ずかしいこと」など、できなかったのだ。
それが私の強さであり、弱さでもあったのかもしれない。
そういう強烈な意識が、ゆっくりと薄れていったのは、一体いつ頃のことだったんだろう。なんて、今更思い出せもしない。

ほんの数年前までは。なにか「突発的に困ったこと」が起こった時。
いつも心の中で「お父さん、助けて」みたいな言葉、口走っていた。
お前ほんとファザコンだよな、と呆れて笑っちゃうけど。しかしほんとそれはいったい「いつから」無くなっていったんだろう、なんて。考えてみても、わからないのです。
実は今でも多分、完全に無くなってはいないようなんだけど。
だからって正義感の塊みたいな人間ではなかったし、今も当然掛け離れたまんまですけどね。むしろ「当然其処にあるべき感情」が時折欠如しているのを不意に発見したりするので(まぁ発見できている部分はまだまともな方なんでしょう。問題は自分でも見えなくなってる部分の大きさ・・・・・) もう少し人間的な感情を表に出していかなきゃいけないなぁ、なんて。


うん、でも「父親に恥じない自分」でいつもいられたかというとそれは全く無理でしたけどね。だから上に書いたことは正直あまり意味の無い感情、意識であったことは確か。 中学生、あと多分高校生の頃も。母親の財布から何度かお金を抜き取っていたことは今でもはっきり憶えています。そして、「罪悪感」など微塵も、感じていなかったことも。いや、ある日突然、止めはしましたけれどね。当たり前ですけど。でも、確かに、「私はなんの罪の意識も感じてはいなかった」のです。それは紛れも無い事実。勿論もう一生、そのような行為をすることは有り得ませんけれども、それは、「母親への罪悪感」では決して無くて、只単に自分の中の倫理観というか美意識がそれを許さぬだけのことなのです。
その当時・・・・私は本気で、心の底から「母親を憎んでいた」のだけれど、それでもだからといって許されるような行為ではないこと、ちゃんと理解した上でそれでも何のためらいも無く行っていたわけです。
その金は何処に消えたのかって?そりゃ飲食代とかカラオケとかですよ。使って消えて流れてしまうものへ。 「モノ」としてカタチに残るものには一切使わなかったのです。それってつまり罪悪感の現れだったのだと考えられなくも無いけどきっと違うでしょう。「罪悪感」を感じそうになるのがイヤだっただけですね。




うーん。
こういう「日記」って、多分読んでる人凄く後味の悪いものだと思うから何だかとても申し訳ないなぁ、と思ってみたり。それでも時折、「読んでもらっている」という意識を抜きにして、言葉にしてしまいたいことをただ書き連ねていってしまいたくなるのです。その行為が何を生むのか、って
結局何も変わらないしじゃあスッキリするかといえばそんなこともないしで。




「意識しないよう努めている」というのが本当のところ。
そう、父親に「助けて」という言葉を、願いを、訴えなくても生きていけるほどに「強く」なったということでは決して無くて。
ただただ今の自分が、父親に対して「誇れる」ような存在ではないということ、充分過ぎるほど自覚しているから、「恥ずかしくて」 「情けなくて」 だからこそ存在を意識しないよう努めなければならなくなった、という感じなのかな。




「いなくなる」ということが。
とっくの昔に理解できていたような振りをして、
実は未だに全く理解できていなかったりするんだろうね。







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yuri |MAIL
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