日記
【一覧】【いままで】【これから】


2001年11月06日(火)   死んだ父親の写真

写真は

一枚しかなかった。

私の家には、ずっと。

会社のデスクで、笑っている写真たった一枚。



葬式で使われた筈の「遺影」も、 私には思い出せない。
きっと父親の両親の家にあるのでしょう。
もう縁を切った人達だから、わからないけれど。



「写真」は、本当はたくさんある。らしい。
死んだ父親が遺した家の、物置の中。

まぁ、理由は簡単な事。
「新しい父親」と、暮らしていく為。
全て其処に、「置いてきた」。母親がね。

それはまぁごく自然な事なのだろうと思うよ。



「写真」なんて、何の意味も持たないような気もする。
「写真」を、何かの繋がりの証明みたいに
後生大事にいつまでも何度でも見返して思いを馳せて、
そんな後ろ向きの行為は馬鹿らしいとしか言いようがない。

それでも、私は


「証明」が欲しかった。


触れた記憶も 言葉を交わした記憶も

どんどん遠くなっていく。

忘れたくないのに。



「甘えてる」 自分でもそう思う。
いい年して一体いつまで 子供みたいに。
いい加減にしろ、と。



高校3年生のときだった。
祖母が29枚の写真を 私にくれた。
昔の写真。
そのうち8枚は、両親の結婚式の写真。

「私が持っていても、いつ、突然死んでしまうかわからないし、
 そうしたら、この写真も、
 どこかに紛れて捨てられてしまうかもしれないから、
 真理子さんが持っていたほうがいいと思うのよ。」

そう言って。手渡された。
そこには、「父親と私」の姿があった。
そんな写真を見たのは初めてだった。

大きな手。背はあまり高くない。私を抱いて。笑って。

一緒に写った写真は、5枚あった。



弟は、少し可哀想かもしれない。
大概、第2子というのは写真が少ないものだ。
しかも、父が死んだのは彼が4歳の時だからね。
一緒に写った写真は、もしかしたら
「物置」のなかに、あるかもしれないけどね。

いつか、探してあげようと思う。


その29枚の写真の中に、かろうじて弟が写ってるやつも
3〜4枚はあったので(どれも私と一緒に写っているものばかりですが。)
見せてあげたのだけれど、
第一声はこうだ

「俺のお父さんって、こんな顔してたんだね。」

そう、家にあった唯一枚の写真も、
母親が戸棚の奥にひっそりとしまいこんであったものを、
私がこっそり見ていただけだったのだから。


顔なんて憶えていなくて当たり前だ。


「逢いたいね。」


弟の口から、そんな言葉が出るなんて意外だった。
でも、無理もない。
弟は、「新しい父親」とは、合わなかったから。
だから余計にきっと。



昔を想う。 なくしたものを、想う。
そんなの馬鹿げた事かもしれない。
建設的じゃないね。

でも、「思い出」がなきゃ生きていけない。
少なくとも、私はそうだ。
情けなくってもいい。



弟が、「結婚式の写真が一枚欲しい。」と言ったので、あげた。

何故、そんなもの欲しがるの?と、
他人は不思議に思うかもしれない。

それはきっと、あいつも
生まれてきた意味、とか
自分の存在の意味、とか
そんなものが、欲しかったんじゃないかな、って思う。
これは、想像に過ぎないけどね。
ずっとずっと母親に「お前なんか生まなきゃよかった」と
言われ続けて生きてきた弟なら、多分尚更。






私は

長く生きることなど有り得ないと思っていた。

ずっと。小さい頃から。
ぎりぎりで想像がついたのは、20歳くらいまで?
今の私でさえ、想像がつくのはせいぜい30歳くらいまでだ。

例えば、「結婚」とか「出産」とか
私には何の現実味も持たないものだった。
どうしても、私には何の関係もないもののようにしか見えなかった。
今も、変わらない。

学校の、文集の寄せ書きで
『将来の夢』を書くときに必ず
「長生き」だとか「100歳まで生きる!」とか
書いている人がいて、とても不思議に思っていた。
そういう「概念」を、持ち合わせていることに。


多分、「ただの逃避」。きっと。
なんとなく、「長生きしたくない」って思いが、
心の何処かに、あったのだろうと思うしね。


それに、多分みんな同じだろうとも思う。今になれば。
だって、10代のうちから、40代50代の自分を想像できている人間なんて
殆ど、いる筈がないんだもの。


ただ、
私の父親は33〜35歳で死んだ。

何故曖昧なのかといえば、
私は、「父親が死んだ日」は知っているけれど
「父親が生まれた日」は知らないから。

母親との年齢差、を、何気なく会話の中で、聞き出したことがあって、
それで、おおよその年齢が、計算できただけのことだから。



私は、
父親より長く生きるかもしれない、なんて
想像もしなかった。

それに気付いたとき
感じたのは
「恐怖」だった。


私は、今のところ身体に何の不調もないし、
これからもずっとそのまま
なんとなくずっと生きていけば
いつのまにか「長生き」しているものかもしれない。


それがとても不思議で。
そして混乱した。



「当たり前」の ことなのに。




   明日 くたばるかも知れない


これは、椎名林檎の 歌の一節。

多分私はずっと自分の死を みつめてきた。
想像はつかないけれど、
人は誰もが死ぬときは 「ひとり」 だけれど、
怖いけれど、
私は、いつか、死ぬんだって。


忘れられてしまうのは、寂しいなぁ、って。
だから父親のことを忘れたくない自分がいる。

この2つの繋がりは、複雑なようでいてとても単純。



でもね、思うの。
「死をみつめること」に、逃げるのは嫌だな、って。
安易な現実逃避。まるで自己陶酔。

「生きていくこと」 その重さに気付いて、身動きが出来なくて、
立ち竦んでしまった時期が 永かった気もするけれど。

別に、私が立ち竦んでいようと、
「時間」は流れる。
それなら、私は私で前に進まないと。





   ひとりでも私は生きられるけど
   でもだれかとならば人生ははるかに違う



これは、中島みゆきの歌。

私は、「誰か」を見つけることなど 出来るだろうか?
そして、「誰か」にとっての「誰か」に なる事など。

少なくとも、今の自分では無理だ。



この歌は、最後はこう結ばれている。



   Remember 生まれたこと
  
   Remember 出逢ったこと
  
   Remember 一緒に生きてたこと
  
   そして覚えていること






何故、長く生きることが 怖かったのか。怖いのか。
忘れられてしまうことへの漠然とした恐怖と、そして
最近、何となくだけれど 解ってきた。

失いたくない 大切なもの  が私に、できて

そしてそれを失うのが
どうしようもなく怖いんだ。
  
耐えられそうにない。
今はまだ。



だから、そんなものは要らない。
今はまだ。



それでも、前に進んでいこうと思っているんだよ。
少しずつでもね。



余談ですが、
私は、
父親と母親と弟が 一度に死んでも
涙など流すことはないと思ってきた。
小さい頃からずっと、そう思ってきた。

「悲しくない」ということではないの。
ずっと何処かで「覚悟していた」ということに過ぎないの。



それでも、

祖母が死んだら、泣くだろうな。

最近、そう思う。
前にも、此処で、書いたことがあったかなぁ。

祖母は、特別なんですよ。

私にとっては。

ここで、「死んだら」なんて話をするのは縁起でもないので
止めておきましょうね。
長生きして欲しいです。


まだ、何も返せてはいないから。






私はいま、
「幸せ」なのですよ。

もし、この「幸せ」の基盤が崩れ去り全て跡形も無くなっても

「幸せ」は、何処にも売ってはいないので

私が 自分自身で「つくりあげて」いかなきゃいけないのよ。


つよいひと に なりたい。


「強さ」の基準を 穿き違えぬよう
ゆっくりと 自分なりに ね。


yuri |MAIL

My追加