日記
【一覧】【いままで】【これから】


2001年06月28日(木)  ガンに侵された父の脳 ホルマリン漬け

父の脳のホルマリン漬けは
今も某大学病院の研究室か何処かに
保存されているのかもしれないし、もう存在しないかもしれない。
「今後の研究に これからの医学に 少しでも役立つなら」
そんな思いから 提供を承諾した母。



「大きくなったら、医者になって、たくさんの人の命を救いたい。
 お母さんが病気になっても、私が治してあげる。」

小学校1年生の時から、将来の夢は医者になる事だった。
周りの女の子達が皆、
お花屋さん、ケーキ屋さん、保母さん、お嫁さん、と言っている中で。


本当は
たくさんの人の命を救いたい なんていう綺麗事じゃなくて
ただ、母が喜んでくれる顔が見たくて。
私が「医者になる」と言う度、とても嬉しそうな顔をしてくれた母。
父が死んで暫くは、父の両親と同居していたが元々の不仲に加え
様々な金銭的トラブル等も重なって
ただでさえ父の入院の世話で身体を壊していた母は
ノイローゼ気味になり 
少しの間母の実家で暮らす事になった。
その後、母の実家から徒歩5分の場所に2DKのアパートを借りて
家族3人で暮らし始めた。
母は正社員で働き、弟の保育園の送り迎えや家事も
とても大変な毎日である事は、子供ながらに解っていた。
だから私は夕食後の食器洗いもしたし、掃除機かけもやった。
父親参観のプリントをなかなか見せる事が出来なくて、
でも母は先生からの”連絡ノート”で知って、
黙っていた事を怒られたけれど、
申し訳なさだけが残った。
母親に迷惑を掛けたくなかった。


母の実家、そしてその後引っ越したアパートは、
最初に入学した小学校からは、 ”学区外”だった。
だから、転校を勧められたのだけれど
大好きな先生や友達と離れるのは嫌だった。
学校側に無理を通してもらい、
心配する母にも「遠くても頑張って通うから」と頼んで
通わせてもらえる事になった。
普段から物をねだったりする事の無い、私の唯一の我儘を、
母は受け入れてくれた。
その事には今でも本当に感謝している。


幼い頃から、「とても手のかからない いい子」だと言われていた私は
父が死んでからますますその性格が顕著になっていった。
只でさえ、幼い頃から「人一倍手のかかる子」だった弟の世話だけで
母はもういっぱいいっぱいだったのだ。


そのせいかどうか解らないが
あまり弟とは仲良くなかった気がする。
しょっちゅう喧嘩ばかりしていた気がする。
一応「面倒見の良い姉」ではあったが、
やはり年も近かったし、何よりきっと、”嫉妬”していたのだろう。


弟は小学校に入学する前から既にコマカイ物を「万引き」するように
なっていたし、小学校に入学してからもどんどんエスカレートしていった。
同級生の持ち物を取ってきてしまう事もあったし、
母親の財布からお金を抜き取る事もあったし、
小学校2年生の時には、母が旅行用にと引き出しに入れておいた
数万円、という単位のお金を持ち出し、
駅前のデパートで高価なプラモデルを買っているところを
運悪く(?)と言うか、運良く
たまたま母の実家の、伯母さんと従姉妹と私がデパートのレストランで
食事をする前に玩具売り場に立ち寄った時に遭遇、発覚して
大問題になった事もある。
ちなみにそれ以前に何度か購入していたプラモデルは、
全部友達の家に預けられていた。
本当に、今思い出しても末恐ろしいガキだと思うが、
「手癖の悪いのは一生直らない」と言われる通り、
いくら怒られても、母を泣かせても
大きくなるにつれますますエスカレートしていくのだけど。


とにかく私はそんな弟が大嫌いだったし、
弟がこんなだから尚更自分だけはしっかりしていなければいけないと
思ってしまっていたのだろう。
今にして思えば、弟はただ寂しくて、
その寂しさが”万引き”という形で表現されていたのだろう。
勿論、その行為自体は決して許される事ではないし言い訳にもならないけれど。
私はきっと羨ましかったのだ。
我儘ばかり言う弟が。
母を困らせてばかりいる弟が。
寂しさをそうやって表に出せる弟が。
私は決してありのまま表に出して、母を困らせるなんて事は 出来なかった。
私が「医者になる」と言えば 母は喜んでくれた。
私にはそれしか出来なかった。


こうして書いていると、随分としっかりした優等生のような子供みたいだが、
実はそうでもなかった。
小さいころはそこそこ頭が良かったので勉強では全く困らなかったけれど、
何しろ忘れ物が多かった。宿題を忘れる事も多かった。
そして母はそんな事に気がつく余裕さえなかったので、
あまり怒られる事すらなかった。
まあ、自分で自覚して「ああ、明日の持ち物は何だっけ」と
行動できるようになるのにそう時間はかからなかったが、
少々信頼され過ぎ、と言うか、放って置かれ過ぎていた感はある。


普通は小学校低学年位なら、母親があれこれやってくれる年頃なのだろうか。
「明日は算数で三角定規を使うでしょう?」とか
「宿題はもうやったの?」とか。
しかしそんな暇な母親ばっかりでもないだろうし。
不満など無かった。


ちなみに小さい頃完全に放って置いたその反動か何だか知らないが、
中学生頃から母は異常な干渉をしてくるようになる。



私が忘れ物をするのは、
しっかりしているようで実はちょっとボーっとしている所があったからだし、
だから母親のせいとかではなかったと今でも思っている。
今でも思い出すのは、
「小学校1年生の算数のドリル」
何学期だったかは、憶えていないのだけれど。
ボーっとしている私は、その宿題の存在さえわかっていなくて、
学校に置きっ放しにしていて先生から母へ連絡があった。
私はその時初めて宿題の存在を知り、
その日のうちに最初から最後まで終わらせてしまった。
(どうも昔から先生の話を聞いていない子だったようだ)
さすがに不思議に思った母が夜先生に電話すると、
案の定”宿題”はその中の4ページ程度であった。
おかげで私はその学期中、算数のドリルをやらなくて済むようになった。
母は、びっくりして呆れながらも、笑っていた。


母に放って置かれた、と書いたが、
決して母が私に無関心だったわけではない。
算数の”九九”を覚えなきゃいけない時は、一緒にやってくれた。
ローマ字を覚えなきゃいけない時だって、一緒にやってくれた。
問題を出してくれたり、一緒に歌を歌ったり。
だから私はちっとも”不幸”ではなかった。
私が4歳から習い始めたピアノを、5歳の夏に父が入院してからずっと
中断して、そのままになっていた事もとても気にしていて、
でも自分からは決して「もう一度ピアノをやりたい」と言わない私を気遣ってか
小学校2年生になってから近所に住む従姉妹達が、ピアノを習い始める時
きっとこの子も習いたいのだろう、と
同じピアノ教室に通わせてくれた。
ほぼ同時期に、従姉妹達がスイミングスクールに通う事になった時も、
私と弟も同じスイミングスクールに通わせてくれた。


母の実家は割と裕福で、従姉妹達は欲しい物は何でも買って貰える環境だった。
そして、近所に住んでいる事もあって私達はとても仲良しだった。
母なりに、「きっと羨ましいし、寂しいだろう」と考えて
精一杯の事をしてくれたのだった。
母のお給料で、家族が生活していく他にお稽古事の出費は
正直少し大変だったに違いない。
元々負けず嫌いと言うか、勝気な人で、
勿論時々私達の面倒を見てもらう事や、一時期の同居のように
世話になる事はたくさんあったが、
実家から経済的援助を受ける事は頑なに拒んでいたし、
何より「母子家庭だからといって子供達に惨めな思いをさせたくない。」
と強く思っていた人なので、
確かに他の家庭に比べて色々構って貰えることは無かったかもしれないが
母は最大限出来得る事をしてくれていたのだ。
私は本当に心から感謝している。


だから私は自分が”不幸”だと思った事は無い。
学校の環境にも、本当に恵まれていた。
私は誰よりも明るかったし、たくさんの友達に囲まれていたし、
寂しい なんて 思わなかった。
それでも
私は自分が”特別”だと思っていた気がする。
特別、と言うのは、別に育った環境云々ではなくて、

何処か、物事を冷めた目で見ている自分が自分の中で存在した。
人の死が突然やってくる事、
人との別れが突然やってくる事を
私はいつも自覚していた。
一人で生きていけるようにならなきゃいけないのだと解っていた。


周りの同級生達が、時々ふと 凄く子供に見えて
無邪気に成りきれない、子供らしくない自分を感じていた。
母だけではなく、他の大人達に対しても
子供らしく甘える事もできかった。

要するにかなり可愛げのない子供だったという事。それだけ。

そんな私を、母方の祖母は、
5人の孫の中で 一番可愛がってくれていた。
と言うか、今でも一番可愛がってもらっている。
本当に祖母にはいくら感謝しても感謝しきれない。
祖母がいなかったら、現在の自分は無かったかもしれない、とさえ思う。



私の医者になりたいという思いは
高校入学とほぼ同時に 完全に消えて無くなる事となる。
学力が追い付かなかったのが一番の理由だけど(笑)
その時の私にとってはもう、
母に喜んでもらう必要は無かったし、
私が小学校高学年の時に母と再婚した新しい父との生活は
私にとって幸せだった。
私は父のことが好きだ。


だからと言って、死んでしまった父の事を忘れる事は決してない。
むしろ父への感謝の思いはより強く深く

私には父が2人いて
2人の父のおかげで今の自分が成り立っているのだと思っている。



医者になる事を諦めた後で、
死んだ父親が早稲田に行きたくて、でも入試で受からなくて
浪人は親から許されていなくて
結局地元の国立大学の工学部に入学した事を思って、
じゃあ私は早稲田を受けようか、などと思った事もあったが、
それは一時的な思いに過ぎなかった。
何より私にはそんな能力は無かったし、
もうそんな事をして 誰かの為に自分を追い込む事などしなくて良かった。



心残りなのは、
もし医者になっていれば、
大学病院に行き、父の脳のホルマリン漬けを
この目で見る事が出来たのかもしれない、という思い。
只それだけ。





今日突然両親から お中元 が届いて(笑)
お中元なんて貰ったの初めてだし、大学生の娘にお中元なんて聞いた事無いし、
かなりびっくりさせられたけど
(突然思いついて送ったらしい。なんだそりゃ。)
中身はと言うと、3種類の野菜ジュースの詰め合わせセットで、

  ちなみに私はここ2年半、毎朝欠かさず『充実野菜』
  (たまに浮気して『野菜生活』)を飲む事を習慣にしているのだけれど、

こんな風に私のことを心配してくれる両親に対して

心から感謝しているし

私は幸せなのだと感じる事が出来る。



***************************************


父の事を書こうと思って書き始めたのに
書いたものを読み直してみれば 母の事 母への思いばかり。
中学、高校時代
一時は 殺したい とさえ 思っていた
それほど嫌悪していた
母に対して
母の存在に感謝の気持ちを
感じる事が出来るようになるまで 家を出て 2年半 という年月がかかった。
それだけの時間が必要だった。
私が 決して手の届かないところにあると思っていたものが
実は 私には 最初から 
私の人生には 溢れるくらい存在していたのだと
気付くまで
理解するまで

私は何てバカだったんだろう。

昔の私を 笑い飛ばしてしまえる程に
今の私は 本当に幸福なんだろう。





yuri |MAIL

My追加