日記
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2001年06月26日(火) |
死んでしまった父も 現在の父も 大切で |
憶えているのは 大学病院の暗く長く続く廊下と 売店の明かり 廊下の中央は何色かのビニールテープが行き先を示し
父の脳腫瘍が発覚して 入院したのは 暑い暑い 8月
私は何故か、病室の風景も、ベッドに横たわる父の姿も ほとんど憶えてはいなくて
ある朝起きて、夜中に父が死んだと聞かされ 父の両親に預けられていた私達は最期を看取る事も無く
私は6歳 弟は4歳
お葬式の時 父がもうこの世にいないという事実よりも 目の前の母が泣き崩れる姿が ただ 悲しくて悲しくて
私も泣いた。
大学病院の隣 公園の銀杏の葉は黄色く色付いていて そんな季節に私は 父の命が限りあるものだと教えられ
父は、私が小学校に入学して、ランドセルを背負っている姿が見たいと、 懸命に戦っていたのだけれど 入学式の20日前に力尽きてしまった。
現代のように、ホスピスで 最期の瞬間までより良く生きる、とか モルヒネで痛みを和らげ、 無駄な延命などせずに 残された時間を、 家族に囲まれて 穏やかに・・・・ そういう風潮はまだ 無かった。少なくとも一般的ではなかったようだ。 そして父は一分一秒でも良いから長く、長く生きながらえる事を望んだのだ。 家族を残して自分一人逝かなければならない 辛さ 口惜しさ 心残り 恐怖 寂しさ 怒り 悲しみ 苦しみ それはきっと私には想像がつかない位、深く、強く、激しく
自分の死が迫って来る苦しみ 抗癌剤の激しい副作用 父はどんなに辛い治療でも泣き言一つ言わずに、耐えていたのだという。 自分がもう 長くはないと知っていても 治る事はないのだと 解っていても 「子供達の為に一分一秒でも長く生きていたい」 繰り返し母に言った言葉 最期の数日間は意識も無く、ICUで、身体に無数のチューブをつなげて
そんな姿であっても、長く生きたい。 それは父自身が望んだ事。
「スパゲッティー漬け医療」とか言われる最期。 (たくさんのチューブがパスタみたいに見えるから) 現代の末期ガン患者の”死に方”としては 否定的な、”尊厳の無い”最期。
私自身、”自分”が”自分”でなくなった状態で生きていたいとは思わない。 無数のチューブとたくさんの機械に囲まれて 只”生かされている” そんな状態なんて もはや私ではない。
母からは、「もし私が 死ぬってわかったら、ホスピスに入れてね。」 と 言われている。 何度も何度も。
それでも 私は父の生き方を誇りに思うし、父のことを愛しているし、 私も父に愛されていたのだと信じる事が出来る。
先週の日曜は 父の日 だった。 だからと言うわけじゃないけれど、 これから暫く 父の事を 少しずつ 書いていこうかと思う。 だって それは私の原点で 書き残す事で もう一度 自分の事を 見つめ直す事が出来る
そんな思いから。
父の日 私は毎年 ビール券を贈っている。(母が再婚した、現在の父へ) 結局他に思い付かないし 結局一番喜んでくれるし
お父さんが喜んでくれると 私は凄く幸せだから
私はお父さんの子で良かったと 本当にいつも幸せだから
これからもずっと 私のお父さんでいて下さい
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