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2011年06月02日(木) ラムと肉じゃが



 いつも送られて来る、西村眞悟(前衆議院議員)の時事通信をとても面白く読んでいる。三月初め頃の時事通信には、トラファルガーの戦いを巡って、英国の自衛権の事が書かれていた。 
 一番最近のは、東郷平八郎率いる連合艦隊の戦艦三笠に乗り込んで記録を書いたアルゼンチンの観戦武官M・Dガルシアの、「トラファルガー海戦はヨーロッパをナポレオンの支配から救い、日本海海戦はアジアをロシアの支配から救った」の引用があった。この二つの海戦、トラファルガーの戦いとそれから丁度100年後の日本海海戦。この二つの戦いを巡って、いろいろ面白い話がある。

 この戦いを日英それぞれ描いた繪がある。トラファルガーの戦いは、英国の代表的な画家*ターナー(ホルベイン・ミノー等と並んで日本の油彩絵の具メーカの名前になっている)が二枚描いている。


   
左The Battle of Trafalgar, 1806          右The Battle of Trafalgar, 1822


 ターナーは風景画家であったが、俗にいう「緑」が嫌い(たん譚も大嫌いで使わないが、ここで言う緑は、ヴィリジャンではないだろう。この人工色は、1856年に発明、特許1859年、ターナーは1851年に没だから見ていない筈なので、ここで言う緑は、昔からあるテールベルトだと思われる。)で後に、ベネチアンピンク(透明黄土色)一色のような画調(二枚目)になっていく。風景画家なのに、緑が嫌いだとしたらもう、風景は描けないと思うのだが、薄黄土で描き通した。

世界的には「対馬の戦い(The Batlle of tushima)」として有名な東郷平八郎他乗組員を描いた「三笠艦橋の図」は、画家 東城鉦太郎が、海軍省の命で描き上げた。この繪は、関東大震災の時に消失し、現在保存されているのは、復元されたものである。登場人物は変わらないが、細部においては表現が違っている。


三笠艦橋の図


 この、トラファルガーの戦いと日本海の戦いは、ネルソンタッチと呼ばれる戦法、片や東郷の方は丁字戦法と呼ばれる戦法、東郷が知ってか知らずでか(当然知っていたろう)共に似ている。ネルソンは、敵の艦列に対して直角に縦弐列の艦隊で相手を分断する戦法、東郷の艦隊は同様に相手に丁型に対するが、この頃には戦艦は進行方向に砲筒が向いており(日本の発明)、従来のように艦の腹を見せ合って砲撃する型から出て、敵が腹を見せているのを、まっすぐ艦首から砲撃する、これで圧勝した。

 また、現在化学遺棄兵器回収問題で、日本が馬鹿な対応を中国に取っている中で問題になっている、赤緑黄白(簡単に言うと赤−くしゃみ、緑−催涙、白−着弾の時の位置を示す白煙。現在も当時も催涙ガス、マスタードガス等は町中のデモ鎮圧等で使われている)などの中で、黄にあたるピクリン酸がある。俗にいう下瀬火薬(日露戦争において初採用)の事である。これも日露戦争に於いて多いに役立った。
この火薬は炸裂すると、炸裂時の温度が高く小一時間熱くて近寄れない。砲手がやられて変わりの砲手を出しても熱くて近寄れない効果があって、これも敵を壊滅せしめた大きな力となっている。

 英国はトラファルガーの戦いに於いて、ホーレイショ・ネルソン提督をこの戦いで失った。洋上の事、遺骸を持って帰国するのには時間がかかる。
当時英国海軍は必ずラム酒を樽で積んでいた。このラム酒でネルソン提督をラム漬けにして保存、凱旋したと言われている。
何故ラム酒が海軍の酒となったか、この酒をめぐっては面白い逸話がある。
カリブ海のバルバドス(英連邦の一国、立憲君主国)で、島民達がこれを飲んで騒いでいるのを見て、
rumbullion (デボンシャー方言。「興奮」の意)と読んだのが始まりで、以後ラムと呼ばれた。

 また、嵐や謎の失踪船多発地帯のバミューダ海域で嵐に巻き込まれた船員達がラムを飲んで恐怖を克服し、嵐を乗り切った。以後英国で海での守りの酒となり、英国海軍が取り入れ、当時蒸気船が主流で、そのボイラーの灼熱に負けないようにと担当の船員に配られた。 
 が、ラムはアルコール度が高く弊害も出始めたため、E・バーノン提督の時代、提督が、水で薄めて飲めと御布令(おふれ)を出した。今迄普通に飲んでいたものを突然水で薄めて飲めと言われて、船員達はその不平を提督のあだ名だったグログラム(布、生地の名。当時提督が愛用、羽織っていたコートからついた)に引っ掛けて、この薄めたラムをグロッグと呼ぶようになった。現在も水割りのラムはこう呼ばれている。
これを飲み過ぎでふらふらになる事をグロッギーといい、日本でもグロッキーになるという言葉の元になっている。

 一方、日本海軍の連合艦隊の話。英国留学において、東郷平八郎提督は当初王立海軍兵学校を希望したが、向こうの事情で許されず、商船学校のウースター協会で学んだ。その時の生活の中で、ビーフシチュウを知った。その味が忘れられず、帰国後任務に就いたある日、料理長にビーフシチュウを作れと命じたが、料理長、そんな料理見た事も聞いた事も無い。話の中から推理して、肉、ジャガイモ、タマネギ、人参をぶつぎりにして入れ、ワインもドミグラスソースも無いので、適当に色の茶色は濃い口醤油、味醂酒等で味付け創った。それは似ても似つかぬものだったが、これが後に日本で一般的になる料理、「肉じゃが」の発明となる。ついでに言うと、提督の学んだウースター協会のウースター(ウスターシャー州・ウスター)は、日本で調味料となっているウースターソースのウースターである。ただ、英国で主流の元祖リーペリンソースとは味が違いすぎる。どちらかと言えば日本のソースはフランスのブラウンソースに似ていると言われている。

 トラファルガーと日本海の二つの海戦の裏にはこういう面白い逸話があった。


*J. M. W. Turner (1775-1851)
英国ロマン派の画家
ペインティングナイフだけで描いたと言われているが、未確認。










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