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2009年07月07日(火) 気のせいか?木のせいである。1/2



 六月下旬、わけあって、庭の10メートル位ある楠の木を地上一メートルを残して切った。大きな木が好きで、何十年か前、京都に居を移し来た時に、真っ先に行ったのが京都東山にある知恩院のすぐ北にある*青蓮院で、四脚門左右にある*大楠の木に夜中、抱きつきに行った。
 
 山で言えば、かってエベレスト登頂を目指す理由を聞かれて、ジョージ・H・L・マロリーは、そこに山があるから(Because it is there.)と答えたが、たん譚は、そこに木があるからだと答える。大きな木の横に居ると何時間でもいられる。多分前世は木だったかもしれない。今のように立ち入り禁止が無かった頃に、屋久島の縄文杉の下で結婚式を挙げる事を真剣に考えていた事もあった。お釈迦さんもキリストさんもいない昔からずっと立ち続けて世を眺めている縄文杉の前でこれからやって行く誓いを立てたかった。ある意味現木神?だと思っている。
 
 にもかかわらず、なぜ切らねばなら無かったかと言うと、隣近所の苦情である。となりにも木が植わっている。うちだけではない。どうも、じぶんちの落葉は許せるが、隣の家の木の葉、枝は許せないらしい。で、訴えられたのが二年くらい前。裁判所に行くと、調停員が男女二人いた。京都の名士が担当している。ところがこの男の人の方が家人と知り合いで、偶然とはいえ驚いた。これは裁判員制度でもきっと起こる。考えてみたら、宝くじの一等何億円は必ずあたる人が居ると言う事は、誰かは確率小ながら必ず遭遇すると言う事だ。

 その人は言った、もう高齢(訴えた爺)で老い先短い、だから、ここは一つ折れて(木だけに…)切ったらどうかね。
 普通考えると、よそから飛んで来た木の葉が庭にたまったら掃き寄せて燃せばいい。そこに自他の区別は無い。万事其れでよしと思っていたが、世の中はわからない、嫌だと言う人もいる。自分ちの葉っぱと他家の葉っぱを違う物と見なして、気に入らないと言う。
結局和解と言う事でこちらが折れた。
隣人と言っても、碁盤で言うと□の下辺(各辺には数件の家が列んである)の真ん中位にうちの家があり、□のやはり左辺真ん中あたりに隣人宅があって、坂にあることもあって、漢字の田の十の交差した所にお互いの庭が、高さ1.7m位の段差を持って接している。
同町内と言っても距離は離れているので、1年に一度隣人の姿を見るか見ないかの存在である。

…続く。










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