目次|過去|未来
去年の暮れ、福田恆存原作の劇団四季「解ってたまるか」を観劇した。最初から強い違和感があり、前半を終へ休憩時間を待って京都劇場から撤収、あっさり帰(けえ)った。内容以前の事で、この原作が出来た時代に、既に憲法九条をチンケなものとして茶にしている福田恆存のすごさは伝わったが、それ以外は改めて西洋演劇の不思議を感じてしまった。 例えば、取調室のシーンで、滑舌が、おばちゃん合唱団みたいに発声を妙にはっきり意識して喋るのがいるかと思えば、なぜかここに二十人近くもの刑事が出演し、その大半は無言で主要役者の後ろにおっ立っている。 さらに狭い舞台にあれやこれや舞台道具がしつらえてある。カウチや背景を使わなければ芝居が出来ないのだろうか。遠近感を出すためだろうか、壁が極端にデフォルメされ歪んでいるので、最初SF劇かと思ったくらいだった。
日頃、狂言を見慣れている目から見ると、もう情報過多で疲れてしまうのである。狂言には机椅子小道具は全然と言っていい程無い。わずかな職域を象徴する衣装、小道具は手に持つ如意錫杖刀などごくわずかで、酒席などでは扇がとっくりになったり盃になったりする。落語のあれと同じで、こちらで想像する。京の都も想像し歩く。「何かと言ううちに、はや五条でござる」、てなもんで舞台は京の五条となる。家並みも、武者の立派な屋敷も具体的には無いが、ある。 喋りはもう狂言師の鍛えた腹から出る声を聞いている見物としては、劇団四季のあの発声は聞くに堪えない.ここに伝統と言うもののすごさがある。狂言師、歌舞伎役者は現代劇を演じる事が出来るが、現代劇の俳優に狂言歌舞伎は演じられない、は、肌で感じた。無理である。 してみるに、あの異常なまでの人員動員は何か?狂言で十数人を動員する曲は、「唐相撲」(幸運にも過去二回見られた)しか思いつかない。 見ていて、はたと気が付いた。その他大勢無能役者は小道具大工他兼務しているのだろう、舞台を作る専属大工を雇うのは大変だ。しかし、木偶の坊(でくのぼう)を「役者」にしておけば彼らはプライドが保てる。喜んで舞台を作る下働きをする事もいとわないのに違いない。
とはいえ、役者は舞台に立たなきゃ役者ではない。木偶と言えどもとにかく立たさなければならない。かくて、木偶達はずらっと主要役者の後ろに「出演」する(ヨシモトなら絵で描いて済ます)。何人かの有能な役者がこの木偶の坊達の生活費を稼いでいる。S席や SS席が何万円もするのはそういう事情からではないか。 かくて現代劇からさらに足が遠のく。
劇団四季的活路 劇団近死演技不可也延命策有只只黙可踊。 司馬ィ遷
(劇団の終焉は近いぞよ、演技は駄目だ。生き残る道は…、ただ黙って踊っとけ!)
→2003年の今日のたん譚
|