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2008年09月20日(土) ねこむ事なく大往生 (1/2)



 晩年の婆さまは、脳梗塞で三半規管をやられ、部屋をくるくる回った。目と耳はほとんど役に立たず耳元で大きな声で名を呼ぶと少し反応した。
 時に風呂場では、声をあらん限り裏声になってしまうくらいに何事か絶叫した。明け方が多かった。用を足す時は、後ろに回り、両脇にこちらの手を添えて厠まで誘導するが、自立心があって最後まで一人で行こうとした。

 何年前だったか、フランスに出かけた十日ほどの間、友人の娘さんに世話を頼んだ。世話して貰っていた間は事無かったが、娘さんが帰り、こちらが空港から帰るわずかな時間の空白の間に、六畳間の替えて何ヶ月も経たない、藺草(いぐさ)の香りあふれる畳の一枚一枚に綺麗に雲古と下呂をしていた。自分をほったらかして行った当てつけに思えた。替えに来た畳屋は其れを見て絶句した。

 医者に行っても保険証がないので吃驚するくらいの診察料を取られた。医者は医者で、百歳を越えてなを、強靱な大腿部の筋肉があると驚いて、うちの病院でこれほどまでの患者は診たことがないと、その身体上の健康状態と若々しさにお墨付きを貰った。
 ここ一年は、風呂場での絶叫もなくなり、 おとなしくなっていた。食欲は相変わらずだったが、ある日、食欲と摂取量がバランスを保っていないことに気がついた。わかりやすく言うと、食べている素振りをしているのである。一見、相も変わらずの食欲で茶碗からがつがつ食べる。
がつがつ食べてしばらく茶碗の中を見ると全然減っていない。食べる意欲は往生するまで衰えなかったが、すでに体は受け付けていなかった。医者は、超高齢なのでいつ何時事があるかも知れない、冷静に対応してくださいと言った。
そのせいか、診察に連れて行っても、*神田二八先生(かんだにっぱちせんせい。仮名。家ではそう呼んでいた。が、週刊誌にもその名が載った事がある位の名医)は、背中の皮を引っ張って、その戻り具合で判断したり、目をのぞき込んで診察する。レントゲンを撮ったり、血液検査もしない。別の医者ではそう言うことは当たり前だったが、検査後の長い診断説明もなかった。100歳を過ぎるとそうなのかもしれなかった。

「最近奥目になりましたなあ」
「はぁ…。」
「目玉が奥に引っ込むとよくない、注意して観察していてください」
「えっ!?奥目が??…。」
 皮膚も引っ張って戻りを見たり、押して見たりする。薬は殆ど出ない。*神田二八先生とは、それでも話が弾んだ。

 ここの医院は、世間の大病院と違って、二時間待ちの五分診療なんて事はない、一分待ちの二、三十分診療で患者にとってはありがたい。ここの患者で最高齢はうちの婆さま。

 その日は婆さまの様子が少し違った。
親しい友人から届いた美味しい一夜干しが夕飯の食卓に上った。婆さまも食べた、いやいつも以上に飛びついてがつがつと食べた…格好をした。少しおいて皿を見ると全然減ってなかった。元気な時は好物の魚は全部残さず食べていた。
 その夜、今から思うと虫の知らせだったか、いつもは別の部屋で寝ているが、枕元に婆さまの寝具を移して一緒に寝ることにした。案の定、夜半容態がおかしくなった。肩で息をする、苦しそうなので、体をさすり続けた。
まじまじ見ると、顔は元気な時に比べて幾分やつれていた。
と、婆さまの目から大粒の涙が頬を伝った。涙を見せたことがない婆さまが泣いた事に心からびっくりした、どこか痛いのか、何が悲しいのか、意思疎通出来る手段(婆さまは生まれつきうまく喋る事が出来なかった。)は何もなかった。手拭いで涙を拭いてやった。介護を感謝してくれているのだとその時は思った。しばらくすると寝息に変わったので少し安堵し家族も眠った。

 翌朝、家人が様子を見た時には、すやすや眠っていた。昼過ぎに、いつもならご飯時には、必ず自力で食卓についたが、一時過ぎても起きる様子がないので見に行ったら、事切れていた。静かに眠ったまま誰にも迷惑かけずに逝ってしまった。
夕べの涙は別れを惜しむ涙だったのかも知れない。

* 老舗二八蕎麦屋の代表は砂場、藪、更科。その内、神田にあるのは砂場と


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