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寝床に入ってから本を読む習慣があり、連日面白さのあまり明け方6時過ぎまで読んでいた。朝六時過ぎ頃になると北隣の家の白梅の木辺り?に鶯が数日前から同じような時間帯にやって来て、鳴き始める。間断なくさえずっているのだが、何だか変なのだ。 ホーホケキョ・ケキョ・ケキョ・ケキョ・ケキョときて、またホーホケキョまたは簡単にホーホケキョと単音節?で鳴くのが常道なのだが、白梅の鶯はどーも新参でさえずりの練習をしているとしか思えない鳴き方をする。ホーホー、ホーホキョ・ホキョ・クキョ。キョッ・キョッ、聞いていて思わずガクッとずっこける。ホーホーキョッ、ホーキョ。ホーキョはないゾ。ケはどうしたケは! ケが(怪我)無くてよかったね何て言ってる場合ではない。お前はほんまにウグイスか?おもわず独り言ちてしまう。 本当に下手で三日めもまともに鳴けなかった。聞いていて、もしやこいつは、父(てて)無し子かも知れないと思うに至った。 うぐいす(他の鳥達も)は放っておいて「ホーホケキョ」と鳴けるわけではない。産まれてすぐにカラスの側に置いておけばからすのカーカーの鳴き声になる。先生が必要なのだ。普通は親が先生だ。 中学生の頃うぐいすを飼っていた。いい鳴き声に育てるには、いい鳴き声の鶯の横に置けと教わった。 きっと今来ている鶯は、教わる前に何かの事故で親を失ったかどうかしてちゃんと教わらなかったのに違いない。鳥には鳴き方が、地鳴きとさえずりの二通りあって、唄うように鳴くさえずりはどうも機嫌のいい時のようなのだ。 うぐいすの普段の鳴き方(地鳴きという)は、人が舌打ちする時の「チェッ!」と言う音を連続して繰り返すような音で、これをやると山で鶯を呼べる。 20世紀初頭フランスの作家で映画監督だったマルセルパニョルと言う人がいた。マルセイユで幼い頃過ごした。父は小学校の教師、当時の進歩的教師で宗教を信じなかった。幼児のマルセルはこの父が教壇に立っている間、教室の最後列の席に子守りも兼ねてか置いておかれた。 ある日、生徒達に黒板に書かれた綴りを読めと書いたそれをマルセルは読んでしまう。誰も教えていない。それなのにいつの間にか覚えてしまって学習していた。 それからと言うもの、家では本と言う本、意味も分からず手当り次第に音読していたらしい。親が本を取り上げる程であったと言う。そういうことがあってやがて作家になり監督になる。 この事からも周囲の環境が子に与える影響は絶大でへたをすると将来が決定されてしまいかねない。それも自我の芽生える前が肝心なようだ。無尽蔵な受容器を持っている。音楽学習などはまったくそのように思える。 そんなことをこの音痴の鶯君から思った。 うぐひすのなく早旦ごとに聞てみれば うつろふ囀(てん・さえずり)に露(つゆ)ぞ吹きける 詠み人知らず(古今集)か? *家人に、うぐいすの子供は子指くらいで、孫はもっと小さくて小指の先ほどで、並んで止まっている図はとてもほほえましいとでまかせを以前言ったのを、最近までずっと信じていたらしく詰問された。本当はウグイスの若鳥は見場も成鳥と同じ。 うぐいすとめじろをその色から混同している人が多いので色見本を示しておく。ちなみに、梅の木に蜜を吸いにくるのはめじろで、うぐいすはあまり高い木には止まらない。せいぜい身の丈くらいの低木に止まる。英語でも、Japanese Bush Warblerといい、直訳すると、日本の低木Bush にいるさえずるように唄う人(アメリカムシクイ)Warbler。→2002年の今日のたん譚「男女平等の怪」 →2003年の今日のたん譚「国連てなんだ」