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2007年03月09日(金)  生きたるきけぇ(又はききゃぁ)



 最近つまらない映画、とくに日本製の映画は何だか漫画と連動してガキ相手の私小説的なスケールの小さい物ばかりで、いくら日本映画の世界はバブルと言えどもあんまりだと思っていたら、大当たりの映画に出会った。
 
 予告編を見ていて、直感的に面白いと思っていた作品で、後数日で終了だというので泡食って出かけた。おまけに一日に一度きりの上映時間で夕飯の時間帯だったが、無理して出かけてよかった。
この映画のすごい所は、事実は小説よりも奇なりを感じさせる事に加へ、見ていると自然に「国を愛する」ということはどういう事かと言う事が理解出来る事だ。静かなる感動で別に涙の場面ではないのに泣ける。

*「泰平(たいへい)の眠りをさます上喜撰(じょうきせん) たった四はいで夜もねむれず」

という狂歌で始まる。これは黒船が日本に来て慌てふためく様子を謳ったもので、*上喜撰とは茶の事で蒸気船にかけた言葉。

この「長州ファイブ」という映画、
明治維新前夜、伊藤俊輔(伊藤博文)野村弥吉(井上勝)山尾庸三 遠藤謹助 志道聞多(井上馨)の五人の物語で、英国の新聞は彼等の事をそう言った。
 吉田松陰の影響を色濃く受けた長州藩の志士達は高杉晋作の命で、品川に出来た完成まぢかの英国大使館を焼き打ちするも、その虚しさから、信州に佐久間像山を訪ね孫子の兵法「敵を知り己を知れば百戦危うからず」を説かれ、
それを機に英国渡航を決心しついに文久3(1863)年、まだ数えで二十一歳だった伊藤等五人は長州藩に秘密裏の援助を受け、英国へ密航した。片道数ヶ月の航海である.

 物語は、山尾庸三を主人公として描かれている。山尾は後の工部大学校(現東京大学工学部)の設立に尽力し、聾唖教育の普及、日本で初めて手話を紹介した。
五人は上陸後、石で出来た建造物蒸気機関車に肝をつぶす。圧倒される。
これは硫黄島の栗林忠道中将も米国留学の際に抱いた西欧諸国への畏怖と同質の物であった。志士達は気がついてないが、文明も文化も既に日本にはあったのだが自覚が無かった。それが後の鹿鳴館時代のような極端な西洋化を行ってしまった事にも現れている。江戸後期、江戸人は地動説なんて一般人でも知っていたし、医学などもシーボルトに見るように知っていた。黒船蒸気船も最新式ではない事も知っていた。驚かなかった。だから、江戸から発の改革が興らなかった。それは今も変わらない。ただ、志士達は田舎者で純粋であった。あっと驚いてしまったのだ。

 印象に残った場面を書いてみる。




左前 井上馨27才 左後 遠藤謹助27才 中央 井上勝20才   右前 山尾庸三26才 右後 伊藤博文21才


  英国に住み始めて二年目に下関戦争(馬関戦争)の予兆を英国の新聞で知り、伊藤と井上(馨)は「攘夷」を止めるべく急遽帰国する。残った三人は、「生きたるきけぇ(長州なまりで、機械の事)」となって尽力すると決意する。現今「産むきけぇ」でがたがた言う世の何と愚かな事か。
現代に大和撫子がいるとしたら、人口減少化を止めるため「産みたるきけぇとなって尽力する」と公言する女が居てもいいと思うが、寡聞にして知らない。

 ある時酒場で残った三人が飲んでいる所に、正式に渡航して来た薩摩藩士達と出会い、長州が英国にした事に対し、藩同士の対立から喧嘩になる。山尾がなだめて後、和解。山尾は造船技術の大事を言うが、金銭的理由でまだ出来ないともらす。
その後がすごい。そこにいた薩摩の志士達が、山尾に金をそれぞれ握らせる。藩同士の争いに終始している場合ではない*「国」のために貸すのだと言って手渡した。現在の額で100万円くらいで、これを元に山尾はグラスゴー(工業都市)に向かい、生きたる機械となって造船技術を学ぶ。

 当初「日本野郎」と蔑んだ船長も、志士達の礼節勤勉と品格を感じ、ついには自分達と同じかそれ以上の存在として扱うようになる。

 ある時、山尾が懇意になった女友達を暴漢から救うべく割って入るが、ボクシング発祥の国、殴り倒されるがそこに一本の棒切れ。
ここで山尾は武士に戻る。まげを切って武士を捨てて来たが、ここから示顕流の剣術が見られる。まったく無駄の無い動き、的確に相手を立てなくする。「剣道」とは違う剣術の動きが見られて興味深い。間違っても面や胴はとらない。

 創作話だと、喀血した遠藤なんかは、英国で客死にすると残念無念で話も劇的要素を帯びて来る所だが、遠藤は 死病と言われた病に倒れ志半ばで帰国するもどっこい生きて、英国で見た精巧な紙幣に感心、日本でも作りたいとおもったのか後に大阪造幣局長を務めた。「桜の通り抜け」はこの遠藤の発案。

野村弥吉(後の井上勝)は、鉄道の研究に励み、後に日本で初めて新橋横浜間の鉄道を開通させ鉄道の父と呼ばれた。
 乳製品で有名な小岩井牧場の名は創設した三人の頭文字の合成でなっていて、日本鉄道社長「小」野義真、三菱財閥の「岩」崎弥乃助、最後の「井」が井上勝である。

伊藤俊輔(後の伊藤博文)は都合三度の渡航をしている。二度目は明治維新後の明治四(1871)年から明治六(1873)年にかけて岩倉使節団の一員として。三度目は明治十五(1882)年から明治十六(1883)年にかけて日本の憲法制定にあたり、列強各国の近代憲法を自ら学ぶために渡欧。ドイツを模範(条文憲法・シヴィル・ロー)とし日本初の憲法制定、内閣制をつくり、初代総理大臣になった。

志道聞多(後の井上馨)は、下関戦争(馬関戦争)の通訳、開化政策を薦める。明治政府の外務大臣。伊藤と共に鹿鳴館時代をつくる。

 小説なら、密航した五人が五人とも功成り名遂ぐなんて、ちんけで如何にも嘘くさくなり、物語として成り立たない。ここが事実は小説より奇なりと言う所以である。

 中学生高校生大学生一般人皆に見てもらいたいと思った。この映画監督は「兼高かおる世界の旅」や「地雷を踏んだらサヨウナラ」の五十嵐匠。



* 萩市内の民家で見つかった吉田松陰直筆とされる「燕都流言録」では

アメリカガのませにきたる上喜撰 たった四杯で夜も寝ラレズ
となっている。

*上喜撰…お茶の商標。
平安初期の歌人、喜撰は、京の茶の名産地山城の人で、後に宇治に隠遁した。それにちなんで商標としたのだろう。茶はカフェインが強い。上等のと言う事だから玉露の事と思われる。飲み過ぎると眠れなくなる。

*「国」のために貸す…。この借りは現在に至るも返してないらしい。











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