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国旗と注連飾りを玄関に。
除夜の鐘を聞きながら、先刻打った蕎麦を、スペイン産の CAVA(発泡ワイン)でいただいた。 これは例年と同じだが、今年は雪みぞれ雨と天気が忙しなく変化した。 一夜あけると日本晴れ。快晴。 江戸時代、武家はさておき、一般の人々は、元日はする事少なかったようである。が、江戸上空には鶴が沢山舞ったようで、見物だったらしい。その光景は錦絵にも残っている。 学生の頃、千束(せんぞく)と言う所に住んでいた。この辺り、江戸の頃は田圃ばかりの地で、鶴を呼び寄せるための餌やりがいたそうだ。 将軍は鷹狩りの折、鶴を捕って、朝廷に献上すると言う定めがあった。そのために鶴を餌付けして寄せていた。 だが、江戸を訪れた外国人が狩猟の楽しみに片端から撃った。その結果、明治に入る頃にはもう見られなくなったようだ。
花を飾る事は、ヨーロッパ諸国など今では誰も疑わないが、早くから花を飾ると言う事を実践していたのは日本人だった。 日本に来た外国人達は驚き、馬を駆って、町外れの百姓の住む、藁葺屋根の家を見に行った。藁葺屋根の棟には当時、菖蒲のような花が一列に飾られ植えられ、庭にも可愛らしく植えられていた。日本ではそれは当たり前の景色であった。 当時の外国人達は花を飾ると言う行為に少なからず驚いている。
イギリスで騒がれ、日本でも一部の人達が熱を入れているガーデニングとやらも、もとをただせば日本発とみていいだろう。
当時日本中から集まった大名達の屋敷が江戸にはあって、その家屋敷を飾るため、それを職業とする人々がいて、縦横数キロに及ぶ、樹木や花々の大植林園、花園があった。 これらを目的に日本に来た 英国人の一人は、日本にあるほとんど全種類の花・木を持ち帰った。 長崎の出島に独逸人医師のシーボルトがいて、その家の庭園にどうしても手に入れたい株があるのを知ると、上の英国人はシーボルトの留守中に忍び込んでまんまとイギリスに持ち帰った。
日本から、どんどん日本が無くなり、例えば学校の音楽室にはよその国の音楽家の肖像が並び、多額の助成金を出してよその文化を教へている。 明治人を作った寺子屋にそんなものはなかったゾ。
お正月、とは言っても本来旧暦で言えば、今日はまだ11月21日、ま、それはともかく、せめて大晦日元日は家にいて、日の丸と注連飾りを玄関にしめし、屠蘇をいただき馳走を食べ、静に過ごしたいものだ。
正月になに用あって外国へ
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