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2004年11月06日(土) 首をちょんぎるという事



 フランスの田舎から帰ってきてすぐに、インターネット上で、イラクの商社に勤める朝鮮人の首切り画像を見た。日本人の画像も流されたようだが、こちらは見ない事にした。同胞であるし、具体的に家族が目の前(国内)にいる。
 いくら脳天気な行動を取ったとは言へ、殺されてしまったんだから、せめてもの弔いとして、無念な現場は見ない事にした。
 
ところで、首をちょんぎるという行為は、昔から世界共通にあって、秦の始皇帝が、十数万人の首を権威を誇示するためにちょんぎったのをはじめ、古代ローマでは、市民に対する処刑も斬首刑だった。
フランスではギロチンで、日本でも、昔は武士は切腹の後、介錯人がいて首を落とした。

 この首切りと、かの首切りにどうちがいがあるか。あるのである。
歴史上に刑として現れた首切りは、迅速に事を済ませて苦痛なくしようという態度である。フランスのギロチンなどはそういう思いから考えられた。古代ローマの市民処刑も、キリスト教徒などは、はりつけや、動物刑(蛇を入れた房に放り込んでかみ殺させた)で無惨に殺されたが、市民はそうではなかった。
フランスでも貴族はほとんど首を切られている。首切りは「高貴」な刑だったのである。

しかし、今回見た、朝鮮人の斬首はちがった。
まるで、屠(ほふ)った、食肉動物の首を切るように、横に倒して、ゆっくりとざっくざっくと切り落とし。髪の毛を掴み首を高々と差し上げた。日本の武士も戦って打ち勝った相手の大将の首をこういう風に切り取ったと思うが、これは両者合意の上の事である。

 泣き叫び命乞いする朝鮮人を、卑怯にも覆面をして顔を隠し、斜め後ろから横に倒して、ゆっくりと首を切った。
 こやつらが、いくら聖戦だといって、たとへ後に政権をとっても、誰がついていくのか。結局テロリストはテロリストでしかない。











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