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昨日、M書房のA氏来る。画集出版の話。出したいが、三文繪描きの画集なんて、だーれも買わない。買ってくれるのはその弟子、愛好家友人身内達だけである。弟子も無く、愛好家も少ない繪描きの画集なぞ誰が買うのか。 出版社は赤字となることは間違いない。黒字になるためには、一工夫が必要だろう。画家による自他画家の分析・評論ほど読みたくないものはない。よってこれらは全面的に入れない。 作品ばっかりでも、これまた一頁十数秒で通り過ぎられる。さてどうするか?
作家の一作品から出発して、作家の住む京都なら京都の文化におよび、総合的なハイパーテキスト(例えばインターネットのHTML のような文章・画面作りで、一つの鍵となる文章から、まったく異なる所へ飛んでいく)のようなものにし、例えば画家が使う個人的な筆から食い物の嗜好、贔屓へと話題がおよんで、終わる。政治は重要だけれども入れない。繪を中心として話題を載せていく。 出来たらDVD(作品の制作過程の映像)の一枚もつけて発売する。そうでもしないと、情報に溢れた今日、目もくれないだろう。 昔、画家なんて高尚なものでもなんでもなくて、生きるために描いた。芸術性何ゾを追求して描いていたわけではない。そういうものは余暇から来るものなのである。 繪描き、音楽家、詩人などは、贔屓あっての物種で、てっとり早く言えば、りっぱな芸人だった。 評論家は繪解きをしたがるが、過去西洋画のほとんどの繪画は、一人の男(キリストさんです)とその母の肖像、王様と貴族の要望で、今で言う写真館の役割として繪はあった。たん譚は、繪は近代印象派の出現で終わったと思っている。アーティストのアートの語源はアルチザン(職人)から来ている。 近、現代の繪画はその言葉と何の繋がりもない。、米国の絵画を見れば、民主主義の下で生まれた繪画がいかに薄っぺらく、つまらないかというのが見て取れる。みんなイラストレーションに見える。日本ではさしあたって、みんな漫画風(アニメ風)に見えてしまう。そう言う風にしか描けなくなってしまっている。 話題がそれた。 おそらく画集だけでは売れないだろう。それは文学・その他にも言える。又一つ、ここに駄(画集)本誕生すという事になりかねない。自己満足する事は出来るかも知れない。考えを詰めていくと暗澹たる気持ちになった。 弁当つけるか!
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