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2003年02月11日(火) |
紀元節(建国記念日) |
日の丸を玄関に掲げる。世界情勢や、日本人の拉致問題などの事から半旗を掲げて、もう何度目の祝日だろうか。 今日は紀元節である。今日二月十一日は、神武天皇が橿原宮(かしはらのみや)で、即位した旧暦の新年(「日本書紀」の中に書かれている。)を換算したもので、明治六年に、新暦二月十一日を紀元節ときめて以来、百余年の歴史がある。 明治の日本の近代国家の創設者も、日本の紀元という思いをこめて二月十一日という日を選んだ。 「そんなもの、何の意味もない、嘘っぱちだ」とおっしゃる方々、それなら、実在したかどうか解らない、キリスト生誕祭のクリスマスや、それから来る西暦、お正月が一月一日と決めていることも、何の根據もありませんね。
クリスマスなら良くて、紀元節なら嘘っぱちと眉を顰(ひそ)めて非難する人はどうかしている。そう言う人達は必ずこういう。 「記紀(古事記・日本書紀)に書かれている物なんて信用できない。」 そう言う人達が、支那の「後漢書」や、「魏志倭人傳」なら信用して、未だに引用する事が多い。だが、「魏志倭人傳」と言えども、日本のことが記述されている所は非常に少なく、三四頁くらいしかない。
「古事記」や「日本書紀」と比べたら問題にならぬ。日本人が書いたものは信用できなくて、支那人なら信用できるというのもおかしい。歴史学者が「史実」と言っているのは、単にそれについて書いた、歴史の信憑性の濃いものを史実と言っているにすぎない。 例えば「神皇正統記」は、北畠親房が南朝が正統であるという一つの気持を述べたもので、「日本書紀」は、大和朝廷が、国の基が固まった喜びや、この國が末永く安泰にと言う願いや祈りを、当時の歴史編纂官に命じて書かせたもので、一種の創作であることは間違いない。 しかし、のんべんだらりとした節のない日々を、たとい、大和朝廷と皇室の為であったとしても、その時にそう決めた日が二月十一日で何の問題があるのだろう。 もし、否定するなら、世の全部の祝祭日を意味の無い日として否定してしまわなければならないだろう。
*「祝祭日といふのは、一民族が同一共同體の意識を快復するといふ意味があった。自然をもとにし、それに日本民族特有の習慣を合せ、普段の個人的な、あるいは利己的な生活から解放されて一つになる。さういふ意味で、祝祭日がきめられた。 また、偶然に左右され、首尾一貫せず、一つの完結體を形成し得ない日常生活、貸し借りや身分、年齢、性別といふ社會的規範に縛られ、互ひに利害の樹立する日常生活、そこで磨り減らされ、疲勞した、個人がばらばらになってゐる辛さから避難し、その根抵にある共同體を確認する事によって再び日常生活に戻って行くあの活力を身につける事、そこに祝祭日を求める人間本來の慾求がある」
昭和四十年頃に出た「日本の歴史(中央公論社)」という本の、その第一巻の月報中、丸山眞男(丸山眞男は進歩派の象徴と見なされていた人)と井上光貞の対談があり、面白いことを言っている。
「ぼくが日本神話を大切だというのは、そのなかに日本国家の生成をさぐる上の素材が見いだされるだけでなく、古代人の世界像と価値判断のしかたが現われている点です。考古學的事実史の上からいうと、ぼくはしろうとだけれど、思想史からいうと、決定的に重要なんですね。記紀の話は事実としては作り話であっていいわけです。しかしなぜ作り話が一定の効果をもったかが問題なんですね。膝に蚊がとまって刺したなんていう自然的事實より、ウソでも作り話でも人間の心のなかに意識された事實のほうがずっと歴史的意味がありますよ。」
「日本神話は古代の天皇制を合理化するためのイデオロギー的體系であるという目的意識的な面だけを見るのでなく、神話の素材には實際に日本の各地方地方でおこなわれていた祭儀とか、民間傳承とか、そういうものがすくなくとも出雲神話などにはあるわけですね。」
また対談相手の井上光貞も、
「歴史というものは現代の立場から過去を見通すものではあるけれども、それぞれの時代にはそれぞれの価値があって、そしてその価値を中心にしていろいろなものが動いている。そういう時代固有の価値を認識するということが、いまの歴史から見失われてしまっているのじゃないか。 そうすると人間が歴史の上に残してくれた、いろいろな多様な現象が現在の歴史の上にどう働いているかを考えるばあい、あまりに直接的になってしまって、過去の人がそれぞれの価値體系のなかで、悪戦苦闘してきたのだという面が抜けてしまうのですね。それがないと歴史というものはひじょうにつまらないものになってしまうのではないか。それがいまの歴史教育の大きな欠点じゃないか。」と今の価値観でものを見る歴史観を否定している。
伝統を歴史を、意識して大切にしたいと紀元節の今日想った。
*参考引用文献:福田恒存 全集第五巻
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