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2003年01月25日(土) |
日本はどこにも行かない。 |
「日本の歴史」全二十六巻の最終巻25巻目「日本はどこへ行くのか」(講談社)が出た。この巻に、親しくしている友人が執筆していたので、買ってざっと目を通した。執筆者は、C・グラッグ、姜尚中・Tモーリス=スズキ、比屋根照夫、、T・フジタニ、H・ハルトゥーニアン。最初の巻00に「日本人とは何か」と題して網野善彦が書いているから、この全巻を通して網野史観が通底しているのだろう。この全巻を読むのは骨である。専門家か余程の歴史好き以外は読まない。
そこで、どういった傾向(歴史観)のものなのか簡単に解る方を教える。 その前にちょっと25巻巻頭に載せられている写真を見てみよう。 アイヌが民族解放を訴える演説会のポスターが載っている、移民と民族それぞれの歴史として、沖縄の人達の写真が載っている。朝鮮統治時代の朝鮮皇太子と梨本宮方子の写真が載せられている。このコメント「統治を正当化するために結婚した」とある。悪意のコメントである。ところが、当時朝鮮より格下に見られていた、台湾について一枚の写真もない。 元統治国の総督府をこわしてしまう朝鮮と、残して記念とする台湾と両方載せてこそ、読む側に説得力を与える事が出来る。これでは自分達の都合の良い側面だけを強調しようとしていると見られても仕方がないだろう。 さて、内容はもう読まずとも予測がつくので、執筆者を見ていく。まず、
C・グラッグ(キャロル・グラッグ)…著書に「日本の女をつくり直す1600年〜1945年」(西村桜訳)。「女性史学」というジェンダー関連の研究誌に寄稿したりしている。
姜尚中…この人はご存じだろう、異様に抑揚のない、落ち着いたしゃべりで偏った事をいう、主に朝日系の言論人。執筆と発言場所、週刊金曜日、噂の眞相、朝日新聞他、
Tモーリス=スズキ…(テッサ・モーリス・スズキ)この人はあの家永教科書裁判の*家永三郎をノーベル賞に推した人々の一人である。推した言い分は次の如し。
「家永さんの多年にわたる自由と民主主義、平和のための学問的な戦いが世界の良心的な知識人、平和活動家、人権活動家に良く知られ、高く評価され…」。 「ノーベル平和賞が始まったのは今から100年前、1901年である。この6年後、人道の観点から戦争中の軍隊の行為を規制する「陸戦の法規慣例に関する条約(ハーグ条約)」が成立した。15年戦争中に日本軍は、これらの国際法に違反する非人道な行為―無差別爆撃、南京虐殺、731部隊、「従軍慰安婦」等― を繰り返した。 家永さんはその行為の違法性を事実に基づいて明らかにするとともに、教科書に正しく記述され、子どもたちが過去の過ちに学びながら国際法と人権・人道に基づく平和な未来に生きてゆけるようにしたいと願った」 からであるとしている。何をかいわんやである。どこの国に、自国のまだはっきりしていない事共を糾弾してその事でノーベル賞もらえると思う馬鹿がいるか! この程度の知識と言い分で、ノーベル賞に推すとはあきれてものが言えない。結果は、コフィ・アナン国連事務総長にノーベル平和賞が与えられた。
比屋根照夫…(琉球大学教授)ヤンバル・ピース・ウェーブ実行委員会主催の「日本にとっての沖縄、沖縄にとっての日本」と題する緊急シンポジウムに参加 「日本連邦共和国などの沖縄の負担と差別の克服をめざす国家システム構想や沖縄のアジア・オセアニア性の強調など、反基地運動が閉塞状況に陥るたびに浮姿形を変えた沖縄独立論に連なる声が上せざるを得ない困難な事情」などを講演、共和国支持とは簡単に言えば、皇室を無くす事を是とする立場だと言うこと。
T・フジタニ(タカシ・フジタニ) この人は「反ひのきみネット」の呼びかけ人となっている。反ひのきみネットとは日の丸・君が代に対抗(ママ)するネットワーク。 「日の丸・君が代に対抗するネットワーク」呼びかけ人 岩崎 稔(東京) 鵜飼 哲(東京) 岡 真理(大阪) 酒井 直樹(イサカ、ニュー・ヨーク州) 田崎 英明(大阪) 中野 敏男(東京) タカシ・フジタニ(サン・ディエゴ、カリフォルニア州) 米山 リサ(サン・ディエゴ、カリフォルニア州) 吉田 俊実(東京)
他、二人略。 もうこれで、どういう人達が執筆しているかおわかりだろう。 「日本はどこへ行くのか」、どこにも行かない。網野史観の批判は簡単である、「人間というものがわかっていない」、人は変わらない。これからも形を変えた「他者排斥・抑圧・侵略・戦争」は繰り返される。なぜか?、過去の歴史を見よ。歴史家の歴史知らずとはこのことである。過去が悪くて今が良いと思うのは現代人の錯覚である。
*家永三郎1937年(昭12)、東大文学部卒。49年、東京教育大教授。77年に退官後、84年まで中央大教授を務めた。マッカーサーにフレンドリージャパニーズとして白羽の矢を立てられ、占領初期に連合国軍総司令部(GHQ)の指導で進められた国定教科書「くにのあゆみ」の編集委員になる。65年6月、大幅な修正を求められ合格した自著の高校用教科書「新日本史」をめぐり、最初の教科書訴訟(損害賠償請求)を提起。 訴訟は検定処分取り消しを求めた第2次、85年以降の検定を対象とした第3次訴訟と続最高裁が、97年8月「731部隊」の記述などに対する検定意見に裁量権の逸脱があったと認定、国に総額40万円の支払いを命じ、一連の教科書訴訟が終結。 国に学問や教育を左右されない事を主張していたが、当人は社会主義者であった。自家撞着の人。
_/_/_/ 親しき友人が何章目かを書いている。人はコンペン糖である。歴史観が違うといって、その人全てを否定するものではない。だれも全人格的に誤謬(ごびゅう)無きものなどいないのだ。_/_/_/
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