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2002年02月01日(金) |
広島原爆死没者追悼平和記念館の愚 |
国立広島原爆死没者追悼平和記念館の、展示説明文の中で先の大戦、*大東亜戦争を定義付けするのに「誤った国策により…」という文章が入って自国の戦争責任を認めるような文を入れることが決まった。
日本の無罪を主張し、戦後の国際法典の規範にもなっている、東京裁判の審判官、国際法の専門家インドのパール博士は、戦後広島を訪れて、その碑の文章を読んで驚きあきれて、大いに怒ったという。その碑の文言は「あやまちは繰り返しません」というもので、パール博士は「これだとまるで、日本人が原爆を落としたみたいではないか、本来ならこの後に、アメリカ合衆国と書くべきだ」と言って、当時の広島市長を絶句させた。 「国策のあやまり…」の思想は、戦争に負けたから出てきた考えである。勝っていれば絶対出てくる言葉ではない。その背後のもう一つの思想、「日本は悪いことをしたから落とされた」というのもそうである。 これは出所がはっきりしているから書く。
当時、占領軍は「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(戦争についての罪悪感を、日本人に植え付けるための宣伝計画)」を徹底して行った。 ルーズベルト大統領、チャーチル英首相、スターリン等の挑発や陰謀、また不意打ちは米国であったこと等は一切伏せ、更に、日本が好むと好まざるとにかかわらず、自国の正当防衛のために、受けて立たねばならなかった、こと等々一切を抹殺して、占領軍が作った『太平洋戦争史』を、終戦の昭和二十年の十二月から、ほとんど あらゆる日刊紙に強制的に連載させた。
『太平洋戦史』は日本軍の残虐行為を強調し、大都市の無差別爆撃も、広島、長崎への原爆投下も、一切は「日本の軍国主義者」が悪いのであって、米国人は少しも悪くない、米国には何ら責任がない、と読んだ人が思いこむ内容だった。 この『太平洋戦争史』は当時10万部も売れた。更に徹底した言論統制と公職追放を行い、そして占領軍は、学校教育において、修身、国史、地理の授業を即時中止させて、占領軍の提供した『太平洋戦史』を教材として使うように命令した。
戦争で一般市民を独自の屁理屈(広島は家内制手工業だから、軍事部品は各家庭(町工場)でも作られている、よって町に住む人も軍関係とみなし、これを殲滅する)で、原爆を落とした。それだけではないのだ。広島にはウラニウム、長崎にはプルトニウム、爆弾。 なぜだろうか?当時アジア人は猿と同じか、それよりちょっと上位にしか思われていず、簡単に言うと、タイプの違った爆弾実験を行ったのだ。だから白人種で同盟国だったドイツには落とされていない。
こう言うことが分かってくると、まかりまちがっても「国策の誤り…」などの文言は出てこないと思うのだけれど、戦後の見事なウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(戦争についての罪悪感を、日本人に植え付けるための宣伝計画)」が功を奏し、目出度く米国の思うがままになって、それはほぼ恒久的に残るのである。
*(太平洋戦争はアメリカの言い分で、大東亜とすると、アジアを巻き込んでいる印象からアメリカが何のために戦争をしているかとの連想がアジアの人達に働き、都合が悪いので「太平洋」と地域を限定した。当時日本を除くほとんどすべてが欧米の植民地だった。)
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