母校の創立記念日で、前の前の代の理事長さんという方におあいしました。 うちの学校は、中学から大学まである歴史の古いミッションスクールなのですが、その雰囲気にぴったりな、老いてさらに美しい知的な女性でありました。 童話もたしなまれるそうで、児童文学者協会の先輩でいらっしゃって、わたしの名前もご存じでいらっしゃるよし、光栄でありました。 そういうわけで、行事の合間に、いろいろ、お話もしました。
がしかし。 これが、なにかのはずみで、インターネット関係の話題にいくと、話が合わないんですよねえ。そもそも、その方がパソコンをなさらない方だということもあるのですが、「ドクター・キリコ事件」のことを引き合いに出して、ネットでの人と人との「出会い」の短絡性や、危険性の方を、とにかく強調なさるのです。 そして、「インターネットが普及してもいいけれど、みんなが機械にふれるのではなしに、興味のある人だけが最先端の技術にふれればいい。一般の人は、いまのままの生活でいいから、必要なときに、技術を持った人々に助力を仰げるような場所を行政が準備するべきだと思う」と、おっしゃるのでした。
ううう。 わたしは、反論したのです。 インターネットというのは、個人個人が世界レベルの情報を、自分の手で、受け取ったり発信したりすることができるということに価値があるのだということ。限られた興味がある人だけが、最先端の技術を独占したり、一部の人だけが情報を扱えるというのでは、意味がないのだということを。
でも、くだんの女性はおっしゃるのです。 「たくさんの情報を、無制限にひとりひとりが扱えるようになると、ドクターキリコ事件のようなことがたとえば起きるわけですね。それは、そういう情報をこのんで入手した、心弱い存在である、その方が悪いのだということになりますけれど、本当にそれでよいのでしょうか? 自殺したその人だけの責任でしょうか?」
…その人の責任だと、わたしは思います。 こういう考え方は、冷たくて無責任なんでしょうかねえ?
ネットの世界での情報は、本当に無制限でのばなしで、ありとあらゆる情報が、ばーんと、陳列してありますよね? そのなかで、どれとどれをとりいれるかきめるのは、自分の責任。そのことによって、どんな事件に巻き込まれても、それも自分の責任。 そう考えるのが潔いと、わたしは思っていましたが、そう発言するのは、「教育者」の人のがわの考え方からすると、「無責任」に見えるのかなと、ぼんやりと思いました。
でも。その女性がどんな風に思っていらっしゃっても、世界中が今、情報革命の波の中にありますよね? みんながインターネットにふれ、情報の流れのなかで、なんとか安定を保ちながら生きていかなくてはならなくなる時代が、もうやってきているのです。その流れに逆行するのは、もはや誰にも不可能でしょう。 蒸気機関車や蒸気船が、駆逐されていったように、つい数年前までの生活は、色あせた記憶の中にしか存在しないものになるでしょう。 誰だって、一度手に入れた自由を、手放したくはないのですから。
ところで。対比としておもしろかったのですが、現理事長さん(もと某銀行副頭取だという男性)は、ばりばりのIT革命支持者で、校長先生に、「早くうちの学校のHPを作るように」と、はっぱをかけていらっしゃいました。そういえば、PTA会長さんも、行事の合間合間に、携帯のメールをみてらっしゃいましたっけ。
時代は、変わるものです。
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