西方見聞録...マルコ

 

 

薄皮 - 2013年08月06日(火)

 この日の夕方の7時に、叔母が、夜の9時に叔父が相次いで亡くなった。

 別に事故とか火災じゃないんだけど、それぞれに療養中だった2人の親せきがそれぞれにこの日急変して彼岸に旅立っていった。わたしはこの二人の10歳年かさの長兄にあたる人の娘なわけだが、子ども時代の叔父と叔母は私の父と比べると大変に若く、冗談とかも父より「世代が近い」感じがした。叔父の家に泊まりに行ったとき怪談チックな単発ドラマを夜遅い時間叔父夫婦が見ていて、そういうのはうちの親は見ないな〜と思ったり、叔母の婚家の別荘に兄や従姉弟とともに連れて行ってもらった時は、夜に「山の中の1っ軒家だから大丈夫だよ」とみんなで歌を歌ったりしてヤングファミリーっていいわね〜と思ったりした。

 まあそういう、こども時代は斜めの関係の気安い楽しい大人って感じの人たちだったわけだ。で、自分が子育てしてみてわかったのだけど、年の近い子どもを持った兄弟の存在というのは「一番近くの子育て準拠枠」だよね。そんなわけであの叔父と叔母はうちの親に「準拠枠」として影響を与えて、そういう形で私の子ども時代に間接的に影響を与えたんだろうな〜と思う。主に我が家の教育熱は第1子が同じ年だった叔母の家庭から伝播したんだろうな、と思う節がある。幸か不幸か、現在私が母となり運営している我が家にはそういう教育熱心な準拠枠がないので、あっぱれ野生児養育中だわよ。

 で、まあ父母を失い、お葬式の開催に主催者として取り組みつつある従姉たちや、まだ自分より10歳近く若い弟妹を一気に失った父と比べると、わたしはちょっと一歩下がったところで「1参列者」や「1次的な悲しみの中にある人のサポーター」としてこの週末のお通夜・葬式X2に臨むわけだ。そんな1っ歩下がったところに居ても、時々いろんな思い出が押し寄せてきて、淡い悲しみの薄皮かぶったみたいになってぼんやり世間が見えることがある。

 でもまあ、採点の祭典を根性で今日の夕方までには終わらせなければとか、娘がオープンキャンパス行ってきたって聞いて、どこ行ったの?何そのチョイス?みたいな会話したり、おKちゃんをかるた会に連れて行って、激しい真剣勝負を目撃したりすれば薄皮は破れて日常がしっかり戻ってくる。

 日常を取り戻して、それを回すことは愛おしくて、大事なことであるな、としみじみと実感しつつ、採点の祭典挙行中なわけである。
 


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