西方見聞録...マルコ

 

 

修羅降臨、あるいは暴力発動の条件(DVD「鬼が来た」鑑賞記 ネタばれ注意) - 2010年12月02日(木)

 さて、ディスカスで借りてて研究会終わったら観ようと思ってたDVDを見ました。ちなみに研究会は終わってませんが、ちょっと日程が延期されたので、観ちゃった。<だめじゃん!じぶん!!

 しかし早朝これを観ちゃうと、1日もうこれのことばっかり考えちゃってなんかすごい囚われてしまう映画でした。

 とにかくあの、すごい作品ですので、まだの方で、今後観る意思のある人はぜひこの先は読まずに、別のページにれっつごう。



=====以下ネタばれ注意===========











 この映画の「鬼」って、なんだろう。とかんがえました。もちろん『日本鬼子』と呼ばれた日本兵のことなんですが、メタファーとしてもっと普遍的な、「人が人を殺せる心理的な物理的な状態」のことをさしてるように思いました。

 前半、というか物語の大半は日本占領下で生殺与奪権を明示的に日本兵や暗喩的に八路軍に握られながら、結構したたかに、たくましく生きる村人の物語です。その村人は主人公もその恋人も恋人の義理の父(恋人は未亡人なのかな?)も賢老もおしゃべりなおばさんとその息子もものすごく個性的で、ちょっとそりゃどうよ?と思う言動も含めてなんか観ているうちに愛着がわいてきて、そのコミュニティの一員のような気分になってきます。
 そこに突然暴力的に(おそらく共産党勢力?)預けられた麻袋の中の日本兵とその通訳をどうするかということを軸に話は進んでいきます。

 修羅を降臨させた状態の日本兵と殺人を実行するのとは程遠い心理状態の村人の対比がコミュニケーションギャップを延々と演じながら浮き上がります。恋人に愛されてたり、コミュニティで居場所のある人(主人公の馬大三)は顔をわかってそれなりに世話した相手を『殺す』ということはとても難しい。対して、自分の故郷から遠く切り離されて、自分自身の命も投げ出すことを刷り込まれて、周りの中国人も個人として識別できない差別的なカテゴライズを徹底的にするように訓練された人(花屋小三郎)は修羅を降臨させた状態で叫び続けている。その叫びを通訳がごんごん意(違)訳するので、映画館で見たら場内爆笑だったんではないかと思います。

 しかし、花屋は徐々に村人との交流をもち、そしてあるショックを受けて修羅が落ちた状態に戻ります。
 
 そして隊に戻してもらう。そこから物語はものすごい展開をして、最後は呆然のラストになるのですが、とにかく、日本兵の営舎の場面、とその後の宴会の後の場面、すごすぎます。「故郷では人だった存在」を「暴力装置」に変換するシステムの一端を描くのですが、きっと軍隊ってそうだったんだろうな、と思いながら怖かったです。その地域の暴力発動の熱源を演じた隊長役、ものすごい怖いです。誰ですか?あの俳優。もちろん隊長も中央からの「人を兵器に変える熱」をシステム的にうけとって発熱しちゃってるわけですが。(しかし、中央からの熱が途切れるタイミングを観客は後で知るのです。このタイミングにも呆然です。)

 村での宴会とその後の場面は前半の村の場面を楽しんだ人ほどきつかったのではないかと思いました。

 そして、ラスト。主人公、馬が修羅を降臨させて、修羅がおちた状態の花屋を襲う場面。国民党軍の描き方も含めて普遍的に「暴力」の発動とソレを受ける普通の人の痛みが理解できるようになっていました。言葉では言い尽くせない事情や一人ひとりの人生、ソレから目をそむけたところで、暴力は発動されるのだな、と感じました。

 で、この作品の監督脚本主演の姜文(チアン・ウェン)。ちょっと追っかけてみたいです。え?あの芙蓉鎮のインテリ役?むーん。上映禁止処分をうけながら2007年からまたメガホンを取っているようですね。要チェックです。




...



 

 

 

 

INDEX
past  will

Mail Home