西方見聞録...マルコ

 

 

子育てを語るときの当事者意識の欠落について(あるいは他人事に対する上から目線に関して) - 2010年10月02日(土)

 江川紹子の電車で子どもは立って発言への感想です。拡張版もあるようです。

 「子育て」関係者への冷たい言説のひとつなんですが、われと彼はこうも隔たっているのか、というのがひとつの実感です。

 子どもを電車乗せて出かけるというのはすごく、力のいる技です。子どもは疲れれば、感情がコントロールできなくなるし、もっと疲れれば、突然眠ります。そうすると保護者は15キロを超える物体を背負って歩かなければならなくなります。通常の荷物を持ってその上15キロを超える米袋を担いで歩く図を想像してほしいです。

 そんなんで移動中の電車では保護者は立っても子どもにはできれば座ってほしいし(保護者は、疲れたからって感情がコントロールできなくなって泣いて騒ぐことはないわけですし、子どもも成長して体力がつけば疲れから泣いて騒ぐことはなくなります。電車内で泣いて騒ぐ子どもの問題はしつけの問題だけでなくて体力の問題も多分に含んでいます)できれば、移動電車の中で座って眠ってくれたりすると、その後の目的地、あるいは帰りの電車での保護者への負担はぐっと軽減します。

 で、子ども連れのお出かけが如何に大変か、なんて話は、直接自分が子どもの保護者でなくても、甥や姪がいれば、あるいは本音で話し合う関係の人に子どもがいれば、実感をもって理解できることだと思うのです。

 子育て言説から当事者意識が欠落し、実感を伴う情報にアクセスできない人が増え、そしてマジョリティとなろうとしていることを江川氏の発言から感じました。

 例えば江川紹子氏が専門の問題について語るとき、もう少し当事者の視点に立った情報を探そうとするのではないかと思います。でも子育てに関してはこうも上から目線で頭だけで考えた言説が流通させてしまうのはなぜでしょう。

 「子育て」は子どもとして全員が経験しているので子どもの側からなら誰でも「頭で考えて」語ることができます。でもそれは親側からの実感の欠落した情報となる可能性もあります。
 
 何も親になる必要性を唱えているわけではありません。育児の当事者と腹を割った話ができる友人関係になるだけでいいとおもうのです。

 実感を伴う情報の流通、それを阻んでいるのは何なのか。子どもをめぐる立場によって生じる「情報租界」の発生を憂慮します。

 



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