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臨界のひと - 2010年06月07日(月) 東京WM時代、私は転職しているので職場Aと職場Bを経験している。Aは某お金持ち財団で、私は東南アジアの大学ネットワーク化事業を担当していた。職場Bはやっぱり東南アジアを現場にするけど初等教育の普及を仕事とする草の根NGOだったので同じ東南アジアの教育を仕事にしながら職場の雰囲気はずいぶん違った。 志を持って職場Bに転職したんだが、職場Bはなんだか激しくとも濃いところであった。晩年回顧録を書いたらもっとも盛り上がる部分に当たるのがこの職場B時代になると思う。愛と憎しみの混じりあった青春の激闘の場所である。 それに比べると職場Aはとにかくお金持ちなので、新宿の高層ビルのオフィスで毎日足元に都民を睥睨しながら仕事をしてたんであるが、まあ余裕のあるこっちの職場で私は基本ビジネススキルを身につけさせてもらったことになる。青っ洟たらしてた20代の終わりから30代になり、1号さんを妊娠して2歳児くらいになるまでの新米WM時代を私はこの場所で過ごした。 さて、本日この職場A時代の上司のスーパーWMにして私の働く母像のロールモデルになったHさんが現在の私の京都の職場に会議で現れたので、一緒にお昼ご飯を食べた。 Hさんはあのころ40歳、わたしがあのころ30になるかならずかだった。あれから12年以上、干支が一回りしている。 Hさんは当時、小学校低学年児の母で、ものすごい忙しい出張スケジュールで東南アジアの国々を飛び回りながら「今日子どもの家庭訪問なの〜」とか言って涼しく職場から消え、1時間後に戻ってきたりしていた。生後4ヶ月の子どもを置いて出張するとか、産後45日で職場復帰するとか、私がその後歩む道はすべて彼女によって実現可能であることが実証されていた道だった。 さて十数年が経過し、私が彼女に妊娠報告をした1号は中学生になったし、小学生だったHさんのお子さんはすでに大学生になっている。 お互い人生の駒を一こま進めたことになる。でも私たちはあんまり変わってなかった。Hさんは相変わらず、かわいく、のほほんと激務スケジュールをこなしていたし私はいつまでもガキっぽい言動のまま今に至っている。 共通の知り合いの近況を報告しあうと、若手だった私、中堅だったHさんの上にいたおっさん・おばさんたちが軒並み鬼籍に入り、あるいは現場を引退していることにしみじみとする。 当時私たちが情熱を傾けていた東南アジアの主要大学のネットワーク化事業は欧米からアジアを見るのではなくアジアの研究者がアジアの視点で域内研究を進めるためのプラットフォームつくりという大きな文化運動を目指していた。各大学間の単位交換制度やや客員教授制度、大学院生の自国以外の東南アジア言語の習得支援などいくつかの成果を残しながら、日本からの支援は2000年代に終了して2010年からのディケイドはこのプログラムに前職場はかかわっていないそうだ。 私自身は、その後、そうした研究・教育を支援する立場から、より研究の内部に進路をとった。だが、分け入ってみると、アカデミックな世界の住人たちが欧米フィルターを通して、非欧米社会を「見る」ことに疑問の感じない習い性にときどき愕然とした。 東南アジアの知識人に向かって旗を振る前に日本国内においても、もっとやるべきこともあったであろうし、バブルの余波の残る日本でアジア視点のアジア学の確立を目指しながら、撤退したあのプロジェクトの存在意義というのは後々検証されてしかるべきだと思った。 まあそんなことを京都の喫茶店で語り合いながら過ぎた12年間に思いをはせる。Hさんとの出会いがあの時期にあったからこそ、子どもがいても「ああ、子育てって大変ねえ。で、次の出張だけど明後日からでいいかしら?」ということを日常として受け止めることができたのだと思う。 Hさんは50歳を目前に少しメンタル面で危機に陥り、1年間休職を経験したという。育児もメンタル危機も、キャリアの山も谷も併せ呑み、淡々と息をするように仕事する50歳を目指したいな〜と思う元上司との邂逅だった。 ...
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