十三通い(チョコラ鑑賞記) - 2009年07月14日(火) この日は午後に子どもX2の個人懇談があったんですが午前中は暇だったので朝から阪急沿線の十三駅(じゅうそう駅、と読みます)に参上して第七藝術劇場でチョコラと言う映画を見て来ました。 なんか私、阪急に乗るときってかなりのパーセンテージで十三の第七藝術劇場を目指しているので、「阪急」と聞くと十三のあのキャバクラとかがたくさんある第七藝術劇場通りのちょっと猥雑な盛り場っぽい空気を思い出すのでした。 そんで映画ですが、ケニアのナイロビ近郊のティカの町のストリートチルドレンの毎日を記録したドキュメンタリーでした。観てよかったです。 ストリートに暮らす子ども達の厳しいけれど相互扶助を基本に自由と自立を謳歌する様子が淡々と描かれています。彼らをめぐっては内務省系児童局、教育省系学校関係、いくつかのNGO、そして家庭がそれぞれに福祉的支援を申し出てきてはいるけれど、それらが提示する「よき暮らし」よりストリートで得られる廃品回収の収入によって支えられる「自由と自立」に少年達は魅力を感じていることが伺われます。 ストリートの子ども達にとって「厳しいけれど魅力的な町の暮らし」については以前、ダーウィンの悪夢に絡めて書いたことがありますが、私の16年前のケニア人口局勤務時代の観察と映画の特に監督さんの視点はわりと近いように思います。 ケニアの農村と都市の格差、近代部門と伝統部門の2重経済が存在する中「よき暮らし」によって親世代の抑圧に耐えながら農家の相続者を目指すか、学業的成功をして近代部門で成功する低い確率に賭けるか。それよりは、ストリートで暮らしながらジュアカリ(スワヒリ語で「きつい太陽」と言う意味ですが、屋内ではなく路上で行われる器用仕事の仕事人、例えば鉄製の廃品から細工物を作り出す職人や警備員=アスカリ、農産物の仲買人=マカンガなどを指します)としての成功を目指すコースが魅力的なのはケニアの社会的、経済的背景を考えても妥当のように思います(その社会的経済的背景の改変の必要性は強く感じますが)。 映画には日系のNGOモヨ・チルドレンセンターの活動の様子が紹介されています。モヨが子ども1人1人の家庭的背景をプロファイルし、家庭訪問を繰り返すおかげで、映像は子どもの実家に行って子どもがどういうプロセスで路上を目指したか分かるような仕組みになっています。でも観ているうちに映画の監督とモヨの代表者の松下さんはちょっと視点が異なることが分かります。松下さんは子どもを「学校に戻して、上の学校にやる資金的援助をして、まっとうな就職を目指させたい」と強烈に思っています。でも映画の監督は路上の生活にも楽しみにもそれなりの理解を示し、それなりの学びと現金収入がある路上の暮らし、スラムの暮らしを共感を持って見つめているように感じました。 ところでケニアの内務省は県レベルでは「児童局」「人口局(家族計画普及)」「刑務所」の3つを管轄しています。一見この3つは相互に関わりあいのない仕事に見えますがこの映画を見て3つの部局の微妙な、しかし連携の必要が激しくある仕事であったことにいまさら気づきました。 同じく東アフリカのストリートチルドレンが出てくる「ダーウィンの悪夢」とはずいぶん違う視点の映画です。よりアフリカの人々に寄り添った視点でストリートチルドレンが描かれていると言うべきか。 ストリートチルドレンの路上調理とその食事風景が「ダーウィン」でも「チョコラ」でも出てきましたが、チョコラの方の路上飯は「うお!おいしそう!食いてえ!」という思いを観る者に抱かせると思います! 後、音楽について。映画にはよくケニアの街角で聞いたリンガラミュージックが採用されていて、心が弾むようにうれしく聞きましたが、なんと!奏者は日本人リンガラミュージシャンサカキマンゴーでした。びっくり。 ...
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