西方見聞録...マルコ

 

 

となりのトトロ、あめでおさんに嫌われるの巻 - 2007年04月03日(火)

 娘2人はジブリ系アニメが大変好きでビデオなんて入手しようものなら、リピートリピートで大変な勢いで観ている。なんとなくマルコもジブリ印なら安心な気がして「目え悪くなんないようにしなさいよ」くらいの注意はしても観ること自体はとがめずに、やつらの注意がテレビ画面に向かってるうちになにやら自分の仕事が出来たりしてそれなりに得したような気分になる。2人に似た様な年恰好の姉妹が出てくる「となりのトトロ」には特に激しくはまっておられる。

 さてそんな子どもたちの様子を夫あめでおは苦虫をつぶしたように見ている。

 あめでおはジブリアニメが、中でもとくにトトロがが大嫌いである。彼が言うには、

「なぜ、森の神であるトトロに出会うのが、村に生まれ、成長してきたカンタ少年ではなく都会から来たサツキとメイなのか。なぜ、引越しのときこんなに世話になりながら、サツキの家族は田植えも手伝わんと『ごせいがでますね〜』と高いところから言って出かけてしまうのか。いなくなったメイを村の人々はこんなにも献身的に探してくれているのにメイを見つけた後、なぜまっすぐみんなに報告しないのか。

サツキとメイにとって村人はトトロよりも存在が薄く、まるできれいな空気やおいしい野菜といった風景の一部のように描かれている。人は風景ではなくて人なのだ。」

と、まあいろいろと不満を抱えて画面を見ている。

 山あいの小さな町を故郷とするあめでおさんは都会側から見える世界を常識として受け入れることにかなり激しい抵抗感を抱いている。でもそういう彼の苦虫感は現在まだあまり広く共有されていない。

 わたしも実はあんまり理解してやっていなかったのだが、最近アフリカが舞台の映画を観たり(たぶん「名もなきアフリカの地で」の主人公と土地の人の関係が「となりのトトロ」のサツキとメイーおばあちゃんやカンタ少年 の関係と一番似ていると思う)、ドラえもん映画へのさるとるさんの映画評(特に静ちゃんの描き方に関する箇所)を読んだりして、このマジョリティ側から見えた景色を常識として受け入れることの苦さが少し腑に落ちた。


 ドラえもんのジェンダー的な問題点やアフリカを舞台にした白人映画のポストコロニアルな問題点というのは結構多くの論者がすでに気づいていると思うのだが、となりのトトロに内包された地方差別に関してはまだあまり論じる人は少ないように思う(それともマルコが不勉強なだけ?)。差別は発見されるまで形にならずにうずくまり続けるのか。そんなことを考えながらトトロの明るいエンディングテーマを今日も聞いている。


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