なんのために勝つのか - 2006年12月06日(水) 伊吹文科相から[いじめはやめよう]という大変皮相で読んでて情けなくなるような薄い内容の手紙を小学生の1号さんが学校でもらってきた。全国の小中学生に配られたらしい。以下はそれを読んでの感想。 グローバル化の進展の中、競争領域は拡大の一途をたどり何が何でも勝たないと負け組になってひゅうるりら〜という強迫観念がすご〜く世の中を蔓延しているように思う。 勝った者は勝ちおごり、ゲームのルールをより勝ち組に有利なように組み替えて格差は拡大する。格差社会の問題点として負け組をクローズアップするのは間違いで勝ち組の貪欲こそが問題の本質と指摘したのはロナルド・ドーアの働くということだったか。 教室の中でも、本来自分と向かい合う機会のはずの学習において勝ってぶいぶい負けてひゅうるりら〜という空気がしみこんでいる。 勉強が将来の進路選択と密接に結びつきそこに競争があるのであれば[勝負]は必要なのかもしれないが、強いものは勝ち奢り、弱いものを虐げるという社会的な哲学が蔓延している中では、勝負は容易に敗者へのいじめへと結びついていくように思う。 ここで大切なのは「何のために勝つのか」という哲学であるように思う。 昔、タイの東北地方(イサーン地方)の中学生の就学支援を仕事にしていたとき、グローバル経済の番外地のイサーン地方のその中でもさらに最貧1%に含まれる家庭の中学生女子に[どうして勉強するの?]と聞いたことがある。私たちの団体の出してる奨学金がなければたぶん彼女はすぐにでも性産業に従事しなければならないそんな13歳の女の子の発言だ。 「勉強をしてお医者さんになって困ってる人を助けてあげる人になりたい。」 その子以外にも聞いた。中学生にもなれば放課後は夜がくれるまで朝は日が明けぬうちから膨大な家事労働に従事しなければならない子どもたちが睡眠を削って月明かりで必死に勉強をする。どうして勉強するの?と月明かりの中で聞いてみるとみんな決まって答えた。 「困ってる人を助けてあげられるようになりたいから。」 弱者を助けられるようになるために人は強者を目指すのだ。 わたしがタイの東北地方で学んだそれが勝利の哲学だ。 それはきっと教室のなかだけでは体現できない哲学だ。 すぐに政府は累進課税と企業課税を強化し、人は弱者に手を差し伸べるために強者を目指すのだ、という哲学を社会全体で体現するべきだ。それをなくして口先で「いじめをなくそう」と文科大臣が子どもたちに手紙を書くことに何の意味があるのか。 ドーア本にもある。 「われわれは忘れているのか?社会という名称そのものに、それが単に競争ではなく、強者の力を抑制し、弱者の寄る辺なさを保護することによって、すべてのものの公益を推進するという意味が含まれていることを」 ...
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