人口減少のそのあと - 2006年06月13日(火) 人口転換という言葉がある。 子どもをたくさん生んでたくさん死んでしまう「多産多死」の状況から少しの子どもをできるだけ死なさずに育てる「少産少死」の状況に転換させることである。 多死から少死への転換は医療の発達や交通運輸の発達によって成し遂げられる。さらに「子どもが死なない状況」は社会が受け入れやすいので比較的疑問も持たず早い段階で達成される。 それに比べて多産から少産への転換は少し時間がかかる。少産化は工業化社会の到来とともに達成されるという。なのでそのタイムラグの間に「多産少死」の時代が現れ、そこで人口爆発が起こる。 工業社会に移行する前の伝統的社会において、教育も労働も福祉も家庭を単位に行われていた。教育は基本的には家庭教育で農業技術などの生業に必要な知識が伝達され、家族は労働単位であり、老いた老人の面倒はやはりその家族メンバーで行っていた。こうした家族を教育・労働・福祉の単位とする社会では子どもを持つことはコストよりもベネフィットの大きい戦略だ。教育はただみたいな家庭教育だし、子どもは働き手だし、もっと後になれば福祉の担い手でもあったのだ。 しかし工業化社会においては近代教育が必要とされ、有償で高度教育を受けたものがより有利な社会的な位置につけ、労働も家庭を単位とはしない。さらに福祉は個々の家庭で担うものではなく社会を基盤に年金・健康保険が設定されている。そうすると子どもを持つということは高い教育費を払うけど、労働力や将来の福祉には(直接)役に立たない。つまり子どもを持つという戦略は家族単位で考えれば、ベネフィットよりもコストの大きい選択になる。 この結果多産から少産への転換が行われ社会は少子化を選択するようになる。 さて、日本のTFRは1.25だそうで「これはやばい!」という議論が巷にあふれている。でもやばいのはきっと日本だけではないだろう。緩やかか急激かの差はあるけどTFRが2を切ってる先進工業諸国はみんな人口減少が予測されるのである。参考サイトこれとかこれ。 人口減少を如何に受け止めるか、という議論があまりに少ないように思う。工業化社会において少産少死戦略ってのは自明のことなので、ここで出生率を如何に引き上げるかという話ばかりをしていないで人口減少のシナリオをどう描くかもう少し議論してもいいような気がする。 このちっこい国に1億2000万人の人口は多すぎるので地球環境へのインパクトを考えても人口はもっと少なくなったがいいんじゃない?という意見であれば、早急に経済規模を小さくする場合の各産業ごとの撤退のシナリオを描くべきだ。公務員は人口が半減すれば半分の数でよくなる。その半減を新規採用を控えるなんて若者の未来を奪うような形で成し遂げるのではなく、今いる公務員の半数に解雇を通告できるか、まず考えてほしい。私は難しいと思う。 また各産業が人口規模つまり市場が縮小していくのを座視しているだろうか?やはり生き残りをかけて自由競争に勝利するためにもがくのではないか?たとえば大学産業は少子化で学生を減るとなったとき黙ってその状況を座視したか?否である。中国・韓国はもちろんインドネシアやタイ・インドにまで学生募集のネットワークを張り巡らせて外国人留学生を必死でかき集めている。 よっぽど強力な縮小のシナリオが描けないかぎり、少子化日本の生き残り策として国境のボーダーを緩め広げていくことになるのではないかと思う。少子化のその先の世界として多民族社会の到来はもう自明のことなのではないだろうか。 カナダはすでに移民にポイント制で評価し、より優れた人材を移民として自国に呼ぼうとしている。イギリスもポイント制を採用し、移民に対して閉鎖的だといわれたドイツもポイント制を導入し、すでに先進国の多くが優秀な人材確保のための競争に走り出している。 他国が育てた人材を横から収奪することに疑問も感じる。数合わせでいいのかという批判も理解する。では経済規模を縮小する撤退のシナリオ描き、さらに巨大な国の借金を経済規模を縮小させながら解決できるのかと問いたい。現段階で撤退のシナリオを描けていないのであればそれはサイドドアとバックドアを開けて暗黙裡に移民を呼んでいるのと同じだ。呼んでおいて「受け入れ態勢ができていません」ではすまないのではないか? 私たちが今急いでするべきは、外国籍の人々が平等に社会に参入できるシステムつくりなのではないか。ここを第1だったり第2だったり第3のふるさととし、多様な人々がともに社会を作っていけるような環境づくりなのではないだろうか。 女はとにかく子どもを産んで日本民族国家を維持しようって言われるよりは、国民国家の枠組みを緩めて、多様な出身国の人と多様な生き方を選びながら、みんなでわいわいやってく方がなんかわくわくする未来のように思える。 ...
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