私がマイノリティだったころ-エカラ送信所からの途切れそうな電波に乗って - 2005年11月26日(土) 今日は某多言語FM放送局の開局10周年イベントに行きました。マルコはその放送局とその周りに集まっている人々にとても特別な視線を注いでこの1年半ばかり生活してきました。まあ早い話しが研究対象だったりボランティア先だったりするのですが(この頃研究してるのか、ボランティアしてるのかちょっと自分でも意識が混濁してきました)、FM放送自体には特別関心を持ってなくて、そこがやってる別のNPOプログラムが主な視線の注ぎ処だったのです。 何となく多言語FM放送の意義には強い視線が行っていなかったのです。多分あんまりラジオというメディア自体に強烈な思い入れを持っていなかったのだと思います。 そんで今日イベントのなかで下記のような一節を聞きました。 「阪神大震災後、間もない被災テントでラジオから流れる故郷の言葉に涙を流したベトナム人がいました。難民として海を越えて日本に渡り、言い尽くせないほどした苦労が、その涙の中にありました。」 なんかこのフレーズを聞いてマルコはフラッシュバックする記憶がありました。 マルコが12年前アフリカの田舎の町で地方公務員してたときのことです。1週間に1度、日曜の夜に30分だけ聞けるNHK国際放送の日本語放送がどれだけ心の支えだったかを強烈に思い出したのです。 スリランカのエカラ通信所から途切れそうな電波に乗って届けられる故郷の言葉や音楽にどれだけの孤独と日々の業務の葛藤を癒してもらったことでしょう。番組自体は非常にショウもないものもあったのですが、内容ではなくただ日本語を聞いていたのだと思います。雨季は夕方から夜にかけての豪雨で停電が発生することがしばしばあり、そんな時はろうそくの光のなかで業務報告書を書きながらラジオの時間を待ちました。 一番気に入っていたのは「音楽をあなたに」のコーナーで、これは離れ離れになっている人同士が思い出の曲を相手に聞かせるためにリクエストをするコーナーでした。日系一世のための演歌だったり、協力隊員や留学生のためのポップスだったりするのですが、やっぱポップスの時は「を、やった。」と思って聞いたし、演歌だと「ちぇ、やられた」と思ったりしました。 まあ今はインターネットもあるのでこんなにも日本語メディアに飢えることもないのだと思うのですが、現在のようにパソコンが普及していない時代、ワープロ一台もって赴任したマルコには結構、飢えの激しい2年間だったのです。 「言葉は心の故郷なのだ。」ということがなんだか生々しく思い出されました。 ところでバイリンガルの2世にとっての言葉という故郷はどうなるのだろう、とも思いました。それは2つになるのか、あるいは1つを選ぶのか、もしくは自分なりに構築するのか。人の数だけ故郷のありようも異なるのだろうと思います。2世の人々が到達する新たな地平が豊かであるためにマイノリティにもマジョリティにも解決すべき課題がいっぱいあるな〜、なんぞと思ったりしました。 ...
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