正義は勝つ!(はず、たぶんきっと) - 2005年10月07日(金) 非常勤先の講義で「アメリカ公民権運動」をとりあげた。(って、なんでわたしが〜!!という気もするが、求められれば木にも登る非常勤渡世なのであった) そんでバスボイコット事件とか、ワシントン大行進とか、アフリカ系の高校生がはじめて名門高校には行った時の事を取り上げたんだが、話だけでは通じないのでこんなビデオを見せた(このシリーズの第19集『人種差別との戦い』ね)。 なんか人種差別って話で聞くより、実際の激しいボディコンタクトを映像で見たり、とても上品そうな婦人が「人種が違うのですから、彼らと我々が異なる人生を歩むのは当然です。」と堂々と語っちゃったりするのをみる方が、なかなか衝撃的な体験だと思うのだ。 今だって人種差別は厳然とあるが、1950年代のアメリカの南部やアパルトヘイト下の南アの保守的白人のように『それを肯定する』と堂々と語る人って多分かなりめずらしい。なんかもっともらしい理由をくっつけて陰に隠れて差別する人はいるけど。つまり、人種差別は表立ってやったらやばいことだというコモンセンスが普及したということだと思う。 このコモンセンスが成立する前の時代の映像はなんだか、やってる事も、言ってる事もものすごい。コモンセンスが成立するまでには激しい闘争があり、成立した現在も形を変えつつ、葛藤が続いてはいるが。 それでも2005年現在から、過去の映像を見ると、名門高校に入っていく黒人生徒に罵声を浴びせ掛ける紳士・淑女の姿は醜いし、「肌の色ではなく人格で判断されるべきだ!」と深い声で語るマーチン・ルーサー・キング・Jr牧師には『あんたの言ってる事は正しいよ』と50年未来から語りかけることができる。 50年後、私たちが今常識的と信じて行った言動は未来の人々にどのように評価されるのだろう。今現在あるさまざまな対立点をみながら、歴史が正しいと判断する主張はどちらだ。と考える。もちろんどのような歴史が積み重ねられるかが分かれ道になるのだろうが。 こんなページやこんなページを読みながら、50年後の未来人に恥じない言動と、50年後の未来人が共感を寄せてくれるために今私たちはがとるべき行動についてつらつらと思いを巡らせた金曜の午後だった。 ...
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