現実の解釈について -女王の教室を見て- - 2005年09月17日(土) さて、巷でうわさの「女王の教室」というTVドラマ。本日が最終回でございました。基本的に見てなくて、8月後半の東京帰省中に、ワタクシの実家で一回みました。なんか怖い先生の話で3歳児おKさんが「こわい〜こわいせんせ〜」とおびえました。そしてやはり東京の夫実家宅でその1回だけ視聴した1号さんが『最終回だけでもみたい』と懇願するので、この最終回を視聴いたしました。 怖い先生は突然良い先生という評価になっていました。 途中をすっ飛ばしてみるとその評価の逆転にはキツネにつままれた気分になります。賛否両論だった番組掲示板も、絶賛の嵐になっており、はて?というかんじ。 なんかね、物事の光の当て方で見える景色は180度変わったりすることはまあ、ありうることかもしれないけど、まるで「ほんとのこと」がひとつの既定の事実としてあり、そこに居合わせた全員が共通の視点でその「ほんとのこと」に到達するというドラマの作り手の世界観に寒イボがたちました。 現実とは、さまざまな意味の重なり合ったバームクーヘンのようなもので、そこにあるのは見る人による無数の解釈、といったのはクリフォード・ギアツだったかな?いろいろな人がいろいろな情報を元に現実を見ます。それぞれの立場でその現実を解釈します。広い視点で見る人も深い視点で見る人もさまざまに存在し、見る人の数だけ現実は存在するのです。 とくに先生像なんて子どもの個性によって受け取られる情報もまちまちで、相性はあっても万人にいい先生や悪い先生っていないのではないかしら。(多数と相性が合う先生というのはいるかも)そしてそれこそが子供時代に学ぶべき「人間という存在の不確かさ」なのではないのかな? 自分なりの視点を持つ、という作業はけっこうしんどいと思います。それを避けて誰が見ても確かな「真理」があたかもそこにあるようなペテンはまったくうそくさいと思えてなりません。 ...
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