女性観のリトマス試験紙としての『愛ルケ』 - 2005年08月28日(日) この話題を出すのは非常にためらわれるが愛の流刑地問題に関して(こうやって話題に上らせるのが渡辺ズンイチ先生を喜ばせる結果に繋がるのではあるが)。 この日経新聞の朝刊連載は渡辺ズンイチの女性蔑視な世界観に根ざした物語である。とくにヒロインの人間像がなんだかものすごい。おらんそんな女は!いるとしたらエロ親父の脳内妄想の中だけだ!という描写のオンパレードなのだ。 夫のことを嫌いぬきながら、妊娠中はSEXしなくてもすむからと次々妊娠して結果的にただなんとなく3人の子の母になったという人生って、、、なにそれ? 夫のことが嫌いでも、夫の収入で生きていく事はいいらしい。離婚に向けて経済的自立という話は1mmも出てこなかった。 あげくに過去の栄光だけの現在はまったく世の中に忘れられている老作家(男側主人公)に誘われるとほいほいついていき、ぱんぱんSEXをして「こんなのはじめて、あなたってすごおい」といいつづけ(何回この台詞があったか数え切れないらしい)週に3〜4回(週末を含む)時には泊りがけで老作家とのSEXだけのデートに明け暮れる。でもあくまで慎ましやかで脱いだ下着は(事後)きちんとたたみ白いスリップだけを着用するようにいわれれば「はい」といい、とにかくアンドロイド並の従順さ(あるいは男にとっての都合のよさ)なのだ。 前作、失楽園とか原文を読んでいなかったのだがちゃんと読んでたらやっぱ信じられないオヤジに都合の良い世界観のオンパレードだったのだろうな〜。 さてそんなひどい物語をなぜ私たちはこんなに読めたかというとこれはもうひとえに「にっけいしんぶん新聞」の功績に他ならない。作品内に満ち溢れる女性蔑視的表現をくまなく拾い上げ「こんなこと日経新聞紙上で取り上げて良いのか?」というメッセージをユーモアを交え、時には真摯に訴えつづけてくれた。この30代男性と思われるにっけいさんのガイドなくしては絶対愛の流刑地なんて読めなかった(いや別に読まなくたって良いんだけど)。日経新聞とそれを支える親父層(愛の流刑地を喜ぶ層)がいるという事実に打ちひしがれそうになりながらも、ちゃんとそれに異を唱えてくれるにっけいさんとそのブログ(すごい人気なんです)のコメント欄の住人たちのまっとうな意見にどれだけ溜飲を下げたかわからない。 そんなとき某下着メーカーのトリンプの社長がそのブログの中で愛の流刑地好きを公言し、渡辺ズンイチ先生に白いブラジャーとパンツを送ったと写真入で発表した。それに対してあんな女性蔑視な小説をまじめに支持して下着まで送るなんて、もうトリンプ絶対買わない!という非難と不買の意志表示で社長ブログは大変なことになった。 愛の流刑地をどう言う感覚で読むかというのはその人の「女性に対する感覚」が蔑視か平等かを判定するリトマス試験紙として使えそうな気がした。 ところでこの小説のありえない女主人公はSEXの最中に首をしめあって快感にしたるというプレイに耽溺しすぎて、男主人公の老作家に誤って絞殺されてしまった。本当に救いようのない人生である。残された3人のこどもはこれ以上ない恥辱の中で母が死んでいったと言う事実にどう耐えるのであろうか。なんだか生前に老作家がものすごい久しぶりに執筆し出版社から冷たく無視された小説を使って都合の良い展開になりそうな予感だが,とにかくこんな女主人公,現代社会では絶対にありえん! と思ってたところ、芥川龍之介が書いた「六の宮の姫君」がこれに近いかも。 六の宮の姫君については山岸涼子も「朱雀門」という話で、現代から解題している。 六の宮は自分からは何も動かず、結局餓死して、さらに死んでも魂がその辺をさまようという結末なのだが芥川は終章で「あれは極楽も地獄も知らぬ、腑甲斐(ふがひ)ない女の魂でござる。」って切って捨ててる。 、、、平安時代でも「腑甲斐ない」って評価ぢゃん!!平成の女としてどうよそれって? ...
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