西方見聞録...マルコ

 

 

マイナス・コミュニケーション - 2005年07月08日(金)

ロンドンのテロで世情が騒然としている。被害の詳細な映像や被害者個々人に焦点のあたったこまやかな情報が茶の間に流れこむ。人々は9.11、マドリッドを思い出し、すわ次は東京かという情報が流れ、われら(非・イスラム)と彼ら(イスラム)に二分された世界観をますます強固なものにする。

テロと言う暴力によって他者の行動を規制し、改変しようとする行為はもちろん許されず、激しく指弾されてしかるべきだろう。しかしイスラムがその暴力によるコントロールを行えばテロで、非イスラムが行えば「戦争」と言う名がつくところがどうも納得がいかない。やはりここはフェアに両者ともテロと呼ぶべきではないか。なるほど私たちはテロ国家(アメリカ)を支持する国の国民か。

9.11と言う激しいマイナスのコミュニケーション以降、米国とそれを支持する国々が突き進んだ広範囲な地域への報復=マイナス・コミュニケーションがなければ、マドリッドの人々もロンドンの人々もこの怒りと報復の輪の中にまきこまれずに済んだのではないのか?

イラクでは激しい治安の乱れからますますこまやかな情報が流れなくなっている。イラクでのテロではいったい何人の無辜の民が犠牲になっているのか。何人が駐留軍の誤射の犠牲になっているのか。すでに正確な数字すらない。助け出されたばかりの人質でも誤射されなければすでにニュースにもならないような暴力の巷に一国を引きずりこみ、今なおその混乱の中で人々は暮らしている。あの戦争はやはりどう見ても世界史規模での大きな誤りでそれを支持する政府が選挙で勝ちつづける国で私たちは生きている。つまり政治的に大きなマイナス・コミュニケーションの一端を握っている。

 そもそもマイナスコミュニケーションは911からはじまったのか?

 強者がになうグローバリズムの進展の中で、富は一部の者に蓄積され、対照的に強者の論理とは異なる論理を持った周縁の状況は苛酷だ。そのグローバリズムをもマイナス・コミュニケーションと規定するならマイナス・コミュニケーションの経済的一端を先進国の消費者として私たちは握っている。

(主に先進国で起こる)テロの悲劇を愁う多くの言葉は、先進国で購買力と選挙権を持ち日々マイナス・コミュニケーションに参画している自分自身のありように、多くは無自覚だ。私たちはーシステムに組み込まれているとはいえー少なくとも選ぶ権利を持ってそれを選んでしまっている。

 アフガニスタン以降、社会基盤を破壊された地域のイスラム教徒が難民としてEUに渡り、とくにイギリスはEUの中でも難民受け容れが進んでおり、多くのイスラム教徒が第2の故国とイギリスを定め、新しい人生をはじめようとしていると聞く。その彼らが今イギリスでどんな立場に立っているのかと思うと胸が痛む。彼らがその立場に立つまでどれほどの選ぶ権利があったのだろうか。






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