酒井順子�ぁ舛泙澄△笋蠅泙后� - 2004年02月13日(金) (つづき) 3)女のセギュメント(分節)構造 セギュメント構造というのは文化人類学の古典エバンズ・プリチャードのヌアー族で紹介された概念です。たとえばヌアー族の1戦士である私が私の兄弟とケンカしているところに従兄弟が攻め込んでくる。従兄弟よりもより近しい関係にある兄弟とのケンカはとりあえず中止して、兄弟と共同で従兄弟と戦う。そこにおじいさんの兄弟の孫たちが攻め込んでくる。すると従兄弟と休戦して共同でより遠いカテゴリーのおじいさんの兄弟の孫たちと戦う。そこに隣村の若者が攻め込んでくれば親族同士はとりあえず休戦し、共同して隣村の若者に対する。さらにそこに異民族であるアザンテ族が攻め込んでくるとヌアー族の若者は部族の内紛を休戦し、部族の若者はアザンテ族と戦う戦友に早変わりする。 まあこれがセギュメント(=分節)構造です。 さて、ワタクシは専業主婦さんではありません。以前より仕事が減って、稼ぎも悪くなり社会保障もやばくなって、より専業主婦さんに近い存在になった今、専業主婦で満ち足りて幸せになってしまう自分像がかなりリアルで(間近で見ると思ってたより楽しそうです>専業主婦)それがたまらなく怖いのです。わたしは専業主婦さん道を邁進するのを恐れる女なんだと思います。しかし負け犬@自給自足の女、酒井順子が専業主婦を「鈍感盛り」のお年頃(P.34)、と断じると、「そうでもないよ、子育て中ってけっこう内省的になっちゃうんだけどさ〜」と思わず専業主婦さんを弁護してしまう自分がいます。 しかしスポーツ記者の岩田暁美さんの「壮絶な戦死」に対する広岡達郎氏のコメント「社会人としてはいい仕事をしたが女としてはどうだったのか」(P.204)に接すると、たちまち、「だまれ!おやじ!!」という魂のシャウトが湧き上がります。 わたしが普段シンパシーを抱いては負けてしまうと気をつけている専業主婦さんも、負け犬と言う他者の前ではとたんに子育て中の仲間になり、おやじの女卑的発言の前では負け犬も勝ち犬も女の名のもとに結束する。これが今回感じた女の分節構造です。負け犬は他者であっても、やっぱり広い意味では戦友なのです。 きっとゴリラが攻めてきたら、おやじとも仲間になれるかもしれません。 4)つきぬける 本書の巻末に「負け犬にならないための10か条」と「負け犬になってしまってからの10か条」が添付されています。 さて負け犬になってしまってからの10か条で一番最後に「突き抜けろ」と酒井氏は負け犬を鼓舞して筆をおきます。「せっかく負け犬になったのだから、たとえ奇人変人と言われようと、途中で力尽きて倒れようと、勝ち犬には決して出来ない突き抜け方をしてもいいのではないか」(PP.274〜275)この突き抜けられない勝ち犬に関しては我が畏友さるとるさんが「現象的には勝ち犬であっても、仮性負け犬として突き抜けていけるのか自分は、いや突き抜けてやる」という母の幸せの中にからめとられようとする自らの野心への血の滴るような切ない思いを淡々と日記にしたためておられます。 なぜ勝ち犬は突き抜けるのが難しいのか。なぜ負け犬は突き抜けようとすると「(仕事では成功して、美人で頭が良くて、センスがよくても、)あなたは、女としてしあわせではない。」(P.172)という殺し文句に足をすくわれねばならないのか?何故勝ち犬も負け犬も突き抜けるのをは何者かにばまれるのか? この辺のなぞはフェミニズム人類学の古典論文シェリ・B・オートナーの「女性と男性の関係は自然と文化の関係か?」でも紐解くといいと思います。この論文はこちらでも読めます。 人間はあるがままの自然を秩序付け、文化を構築することによって人間となった動物です。普遍的に人類の認識は自然(無秩序)と文化(秩序)の二項対立で出来上がってると大昔の西欧の学者さんたちは言いました。この二項対立をジェンダーに当てはめたのがオートナーの弁です。女は出産と言う自然的な機能を肉体に内包するゆえに自然に近い社会的役割(家事・育児・男性の仕事よりはやや低次な仕事)や象徴的役割(神に近かったり、不浄だったり)を担い、男性よりもより自然に近い存在とみなされます。対して男性はより高い次元の文化をになう存在であるというのです。 たとえばまったく自然状態の赤子を社会化する教育において初期段階の保育園・幼稚園・小学校教育は女性が担い、高等教育はおもに男性教諭によって遂行されます。 また、生ものと言う自然状態を調理して食べられる状態にする時も家庭料理は女性によって担われるが一般的に高い文化的価値を付与される高級料理(フランス料理も中華料理も日本料理も)や宮廷料理は男性調理人によってになわれる、というのもなかなかわかりやすい例でしょう。 自然にアナロジー(類推)された出産する女は普遍的に文化にアナロジーされる男性に対してより低い地位を付与され続けてきたとオートナーは説きます。じゃあ、オートナー、出産しない負け犬は自然の罠にはまらずに、高い文化的な価値まで突き抜けることが可能なのではないでしょうか? 理論的には可能なのです。 だから自然的行為=出産を行わないから「女としてどうよ」なんて堂々巡りのような野次には耳を貸さずに、負け犬よ、突き抜けろ。とマルコも思わずエールを送りたくなったりします。 そして自然的行為=出産とそれに続く育児にどっぷり戯れた勝ち犬も、1,2年我慢したら是非突き抜けましょう。いろんな方向に。昔と違って出産のメカニズムは解明されてきたんだしさ。そんなに物凄いブラックボックス抱えてるわけじゃないんだからさ。 負け犬と勝ち犬の融和の可否がもしかしたら、次世代の女性の地位向上に物凄い大きな影響を及ぼすかもしれませんね。セギュメント(分節)構造的には戦友になれる可能性もあるのでぜひ、異文化摩擦を起こさずにありたい物だと思います。そのための異文化理解の書として「負け犬の遠吠え」はなかなか良書だったのではないでしょうか。 ...
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