■2003/02/22 (土) いやー、二回目はおもしろかったです。 一回目は、自分の中の原作に対する思い入れとか、 『旅の仲間』を何回も見てふくらんだイメージとか 他の人のファンフィクションでできあがった妄想が ブレーキになっていたんだと思います。 それが無くなってみると、とても楽しい。 その上でやっぱり足りないところもあるけれど良いところも見えてきました。
文章と映像というのは質が全然違うものなんだ、と改めて思いました。 小説を読むということは、言葉の持つイメージをやりとりすることかもしれない。 書いた人のイメージ、読む人のイメージ、一般的なイメージはそれぞれ違う。 読者のひとりひとりが、自分の持っている直接的な体験や間接的な体験をもとに 読んだお話を自分の中に再構築する。 それは他の人のイメージとは違うし、作者自身のイメージとも違う。
絵や音や映像はダイレクトにできあがったイメージを提示する。 PJの映画のビジュアルは、私の持っているイメージをはるかに超えて いろいろな情報を与えてくれる。それは、なかなか楽しい体験だと思いました。 背景となっているすばらしい自然や、それぞれの個性的な俳優さんたちは、 この映画を越えて、違う世界への入り口でもあります。
目に見えるイメージとは違って、抽象的なイメージというのは 人と共有しやすいでしょうか。もっと人それぞれでしょうか。 人間に対する信頼や、何が真で善で美なのかは、共通のものを共有しやすいでしょうか。 小説を読んでいる時に、映像的な表現が華やかな文章もあるし、 内面を深く追求していく作品もあります。文章はどちらに重点をおくのも自由自在ですね。 映画は、どうしてもビジュアルが先にたってしまうけれど。
指輪物語を読んで、私が一番心を惹かれたのは、何だったのでしょう。 なかなか一言で言うのは難しいです。PJや他の脚本家たちや製作者たちは 同じところを見ているでしょうか?国籍や文化が違ういろいろな読者が 多少の幅はあっても、指輪の中に共通のものを見ているかどうか・・・ 様々な要素がからんでいるとしたら、どこに一番惹かれているのか、 その判断はやっぱり第三部を見てからということになりそうです。
個々の登場人物の解釈は違っていても、最後にたどりついたところが 同じなら、それはそれでいいかもしれないと、今日は思いました。
☆今日の感想
セオデン王のラインを追っかけていたら、いい話だと思いました。 現実から目をつぶっていた彼が目覚め、絶望的な状況に打ち負かされそうになりながらも 周囲に励まされて、「エオルの子よ!」と出陣していくシーンはいいなあ。 シンベルミネのことを入れたのも原作ファンにはうれしいところ。 ハマとギャムリングはなかなかよいキャスティングでした。 ハマの息子(脚本のフィリッパ・ボーエンの息子)はけっこうよく映っていたなあ。 PJとフランウォルシュの子供達は洞窟に隠れる親子として、カツラを換えて再登場。 PJは二度でてくるそうですが、まあ、見つけられなくてもいいや。 アランリーもDVDになってから確認しよう。 やっぱり蛇の舌が私は好きなんですわ。 なーんか薄ら汚れたハンカチをかみ締めつつ、エオウィンに懸想しているところが 昔のお話にはこういうキャラがつきものだったわよねえ、という既視感があります。 完全に目がいっちゃってるフロド演ずるイライジャはすごかったです。 ゴラムとの関係も含めて、けっこう評価してもいいかも。 ファラミア様(!)は親の愛に飢えた次男坊として見ればいいかもしれない。無表情がすてき。 ゴンドールの紋章の入った鎧を身に付けてるんですよね。ヴィゴもあれを着るのか。 「我々は理解できた」という場面で、やっぱり「何を理解したんだよ!」とつっこみたくなりますが。 オスギリアスの廃墟に現われる翼竜に乗ったナズグルと、いっちゃったフロドの出会うあのシーンは、 もう全然原作とかファンの思惑とか切り離して映像として好きですー あの場面はフロドのファンの方々には評判が悪いのですが、あそこでナズグルに近づいた事で サウロン側が指輪がゴンドール領内にあると思い込むという伏線かもしれません。 (アラゴルンのパランティアのかわり) アルウェンは、出来る限り控え目にしたという作り。それでもラブシーンはいらないとか 王様二度も回想してんじゃないよ。と評判は悪い。リブでさえなければ、よかったんだが。 もうちょっと、エルフっぽい女優さんはいなかったのか。ヴィゴ・アラゴルンがへたれて見えるのは 選んだ恋人がリブだからというのもあると思う。女を見る目がないのかこいつ、とか思われそう・・・ しかし、原作を読まずにこの映画を見ている人たちは、アラゴルンがいったい どこの王様かわかってるかな〜不安。
|