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■ 男の子は泣かない
ボーイズ・ドント・クライ (http://www.werde.com/movie/new/boysdontcry.htmlで映画の紹介)
こんなに後味の悪い映画は、たぶん初めてだ。
単純に、「泣けるよい映画」だろうか?
泣くと癒されるというけれど、
違う。
これは怒り?
悔しさ?
いろんなことがよけいにわからなくなった。
誰かを恋人として愛する基準って、なんだろうと思った。
性別っていうのは、どこに表記されてるものなんだろう。
外見?
戸籍?
性器の形態?
生殖の可不可?
ブランドンは恋人ラナに自分が肉体的に女だということを隠して付き合っていたのだけど、ツクリモノの性器でも、そうと知らなければ愛し合えた。 その一方で、ブランドンの性別を知ったのち、そんなの関係ないと一旦は愛情が変わらないことを誓う。 それなのに、ラナはふと、恋人の髪が洗いざらしで少女のようにも見えたとき、キスを拒む。 ブランドンの性自認がどうであれ、セックスがどうであれ、 そのとき彼女は、ふと相手が同性であると意識した。 それだけで、キスができなくなった。
ジェンダーやセクシュアリティに関する文献は、多少は読んだ。 物質的ではない、文化的な「性」(ジェンダー)を扱っているときは、その曖昧さを理解しているつもり。 でも。 性別は本質的なモノじゃないという学術的な説明はどうであれ、 直感的に自分は「男」もしくは「女」だと自認する仕組みや、もしくは自分は同性愛者/異性愛者/バイセクシャルというふうに認識するときの、本能に近いような感覚までは、机上の論理では解きほぐせなくて、なんかもう、ごちゃごちゃ。
けっきょく、なにもよくわかってないということだけはよくわかった。 それなのに論文を書こうとしているのだから、どんなふうに納得させればいいのやら。
それでも、ブランドンに関しては、まだはっきりしてる。 ブランドンは、女と知られて恨まれレイプされてなお、泣くことを拒み、弱音を吐くことを拒んだ。 それは「彼女」にとって、自分のジェンダーは「男」だったからだ。 レイプされるはずのない「男」だったからだ。 これはこれで突っ込みどころ満載なのだけど、ある意味、まだ明瞭。
問題は、ブランドンの恋人、ラナ。
ぶっちゃけた話、「好きになった人がたまたま同性だったんだからいいじゃない」みたいな括られ方(多くのサイトでそんな感想が書かれている)は、納得いかない。 実際、だからこそ、監督自身、キスを拒むあの一瞬を、描いたんだと思う。 そんな単純なものじゃないと、思う。 そんなに簡単にすべてクリアになるものじゃないと思う。
相手が肉体的にも精神的にも男であったとして、挿入しないセックスは有りだと、私は思う。そもそも、セックスレスでも、恋愛は可能だ(となんとなく思っている)。
ましてや、ブランドンは、(心の中は)男だ。 「彼女」は何度も、「自分は『男性』だが性的に障害がある」という言い方をする。 身体は、紛れもなく女と認識されるだろうモノではあるけれども、 その身体を男として恋人として認め、受け入れることに、たいした壁はないのかもしれない。 実際、ラナはたぶんある程度は受け入れた。 でも、完全にではなかったと思う。 ブランドンを少女だと意識した途端、ラナは戸惑うのだから。
心を入れるこの器って、なんなんだろう。
身体って、意識とどういうふうにつながっているのだろう。
2001年12月10日(月)
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