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 レ・コスミコミケ/イタロ・カルヴィーノ

『レ・コスミコミケ』 ハヤカワ文庫 epi/イタロ・カルヴィーノ (著), 米川 良夫 (翻訳)
新書: 295 p ; サイズ(cm): 15 x 11
出版社: 早川書房 ; ASIN:4151200274 ; (2004/07/22)
内容(「BOOK」データベースより)
いまや遠くにある月が、まだはしごで昇れるほど近くにあった頃の切ない恋物語「月の距離」。誰もかれもが一点に集まって暮らしていた古き良き時代に想いをはせる「ただ一点に」。なかなか陸に上がろうとしない頑固な魚類の親戚との思い出を綴る「水に生きる叔父」など、宇宙の始まりから生きつづけるQfwfq老人を語り部に、自由奔放なイマジネーションで世界文学をリードした著者がユーモアたっぷりに描く12の奇想短篇。

目次
月の距離
昼の誕生
宇宙にしるしを
ただ一点に
無色の時代
終わりのないゲーム
水に生きる叔父
いくら賭ける?
恐龍族
空間の形
光と年月
渦を巻く


復刊を待ち望んで、やっと復刊されたときは、すごく嬉しかった。本のオビにはこうある。


「宇宙の生成って?最初に地上に出てきた生物は?恐竜はなぜ滅亡したの?本の中でこれらの質問に答えてくれるのは、ビッグバンのとき居合わせた掃除のおばさん、硬骨魚類の大叔父さん、昔恐竜だったQfwfq氏などなど。なにしろ宇宙が始まった時から生きていた人たちですから、臨場感に満ち満ちた話ばかり。そりゃあもう、類のない本なんです」─作家・川上弘美


特に冒頭の「月の距離」など、昔、月と地球の距離はとても近かったので、月に行くには脚立を上っていったものだなんて設定が、たまらなく好き。実際に、月と地球の距離は、昔はもっと近かったわけで、年々離れていっているのは誰でも承知のことだから、まんざら嘘でもないわけだが、なにしろ語り手のQfwfq氏は宇宙ができた頃から生きていて、宇宙空間を漂っている時に知人に会うと、「この前会ったのは、二億年前だったかな」なんて感じだし、5千万年前には氏自身も恐竜だったりするわけで、とにかくスケールが大きい。

さらに、ベリウムだのニュートリノだのという科学的な用語が出てくるかと思えば、バルザックの 『ゴリオ爺さん』 の話が出てきたりする。というわけで、「日本は宇宙ができる前から存在した」などと書いてある『竹内古文書』にも勝るとも劣らない、まさに、奇想天外、荒唐無稽、破天荒な大法螺話なのだ。

カルヴィーノは、他に 『柔かい月』 も好き。これもやはりQfwfq氏の話だが、『レ・コスミコミケ』より、いくらか難しい話になっている。しかし、これにもまた唐突に 『モンテ=クリスト伯』 なんかが出てくる。そんなところから、カルヴィーノが 『なぜ古典を読むのか』 という本を書いた理由が、ちょっとわかるような気もする。「図書館で眠っている世界文学の古典を甦らせる面白くてためになるエッセー」ということで、タイトルは知っていたが未読。古典を読もう!という主旨のブッククラブをやっているのだから、これはマジに読んでみなくてはならないだろう。

とにかく、これはすごい本だということを、再読しながら改めて実感している。ファンタジーとかSFとかといった言葉では言い表せない、やはり「幻想文学」と呼ぶべき本だろう。もともと私はSFファンだったが、そもそもファンタジーにはまったのは、この『レ・コスミコミケ』のせいだ。こんな法螺話があっていいのか!と思い、この手の本を読むようになったわけだから。

こうした法螺話は、目の付け所で大きく面白さが変わってくる。ロバート・オレン・バトラーの 『奇妙な新聞記事』 も目の付け所は面白いし、カルヴィーノ風の法螺話だと思うが、やはり大法螺吹きのカルヴィーノには、全然太刀打ちできないといった感じ。

カルヴィーノのオリジナリティに匹敵するのは、私が知っている限りでは、宮沢賢治くらいしかいない。もちろん内容もスタイルも全然違うけれども、どちらもその独自性においては、天才だと思う。目の付け所がいいという点では、T.C.ボイルも、もっと鉱物的な嗜好を取り入れ、かなりぶっ飛んだ状態になれば、もしかしたらカルヴィーノ的な感覚を開花させるかもしれないなと思ったりもして、非常に楽しみにしている。


●「水に生きる叔父」

『レ・コスミコミケ』の中で、「月の距離」同様に大好きな話。
カルヴィーノの目の付け所が好きなのだが、これもそのひとつで、地球上の生命が、魚類から両生類、そして陸生の動物へと変わっていく、まさにその瞬間を描いた話。

語り手のQfwfqじいさんは、陸に棲むようになって間もないが、一族のほとんどは、すでに陸に上がっていた。だが彼の叔父(N';バ・N'ガ)は、かたくなに「サカナ」であることをやめようとしない。「サカナ」と言っても、シーラカンスのような古代の魚のことである。親類一同が叔父を説得するが、一向に耳を傾ける様子もなく、依然として悠々と水の中を泳ぎ回っている。

ある日、Qfwfqが婚約者(Lll─すでにかなり以前から陸に棲む様になった一族の娘だが、たぶんトカゲのようなもの)と一緒にいる時に、その頑固な叔父に出会い、彼女を紹介するのだが、彼女は叔父の話のとりこになり、いつの間にか叔父に泳ぎを教わるようにまでなっていた。

それと同時に彼女の様子が変になり、あせり始めたQfwfqだが、そんな彼の思い(水の中に棲むものは時代遅れで恥ずかしい)とは裏腹に、なんと彼女は魚類として生きることを決心し、叔父と結婚してしまうのである。

一見、荒唐無稽な話だが、古いものすべてが時代遅れの恥ずかしいものというわけではないということか。にしても、魚になるか、トカゲになるかという境目の状況で、古代の生物たちは、このような葛藤を繰り広げたのだろうかと思うと、非常におかしい。

また、『レ・コスミコミケ』の登場人物の名前は、皆ほとんど普通には読めない名前だ。語り手のQfwfqにしても、その友だちのKgwgk、Pfwfpや、Xlthlx、Vhd Vhd、Bブ'bお祖母ちゃん、ミスター・Hンw、Ph(i)Nko夫人、Pベルt・Pベルd氏、Z'zuさん、デ・XuアエアuX氏、などなど、よくもまあ、こんな名前を考え出したものだと感心してしまうが、実際に読むほうは、結構大変である。しかし、この名前がまた、時間も空間も越えたQfwfqのホラ話に、一種奇妙な味をもたせているのかもしれない。


●「恐龍族」

『レ・コスミコミケ』の語り手Qfwfqじいさんは、5千万年前には恐龍だった。だが、栄華を誇った恐竜も、その絶滅の原因は不明だが、Qfwfqただ一人となってしまった。

かつては世にも恐ろしい生き物として恐れられていた恐龍だが、新生物に会っても、一向に驚く様子がない。「恐龍」という言葉は恐れられているものの、彼らは本物の恐龍を知らないため、Qfwfqが恐龍であるとは思わないのだった。

そうしてQfwfqは、新生物の村で力仕事をして暮らすようになり、そこで皆と打ち解けて仲間になり、恋をし、次第に新生物の暮らしに馴染んでいくのだが、自分は恐龍なんだという思いは、けして忘れることがない。

新生物は、恐龍でもないものを恐龍だとして恐れてみたり、化石となった恐龍の骨を見て、驚いたりしているのだが、誰一人として、Qfwfqが恐龍であるとは思わないのだった。

絶滅したと思われる種が、今ここに現れたら、こんな風な対応になるのかもしれない。かつてはそういった種がたくさんいたのに、そんなことはあったのだか、なかったのだかと、新生物たちは、まるで自分たちこそがもともと地球上の生物の王であるかのようにふるまう。

この話は恐龍の姿を借りてはいるが、このまま今の人類にあてはまる話だろうと思う。消えつつある最後の一頭である恐龍の、郷愁に満ちた哀感漂う話である。


●「光と年月」

ある日、Qfwfqが天体望遠鏡で観測をしていると、「見タゾ!」というプラカードが見えた。計算をしてみると、その星雲の光は、1億年かかってQfwfqのもとにとどいたのであり、見ラレタ事件というのは、つまりさらに1億年前に起こった事件ということになる。このやりとりに要した時間は2億年。

だが、宇宙は膨張をつづけているのだから、Qfwfqが返事を示したところで、今度もまた2億年というわけにはいかない。数千年のずれが生じるというわけだ。やりとりが長引けば長引くほど、さらに時間はかかる。

しかし、事件(何の事件かは不明だが、Qfwfqとしては見られたくないものであった)を目撃したのは、1億年向こうの星雲だけではなく・・・

というわけで、Qfwfqはさんざん考えた末に、第一の目撃者には「ソレデ?」という答えを返したのだが、そのほかの目撃者にも、それぞれ実にどうでもいいような答えを返している。宇宙規模の膨大な時間と空間を使って、とってもくだらないやり取りをしているという話なのだが、このやりとりに要する時間を考えただけで、気が遠くなる。それでも、こんなやり取りを、広大な宇宙空間でやっているかと思うと、もう笑うしかない。


●「渦を巻く」

一個の軟体動物であったQfwfqじいさんは、ただ意志と思念の分泌のみによって、美しい螺旋形の貝殻のなかに閉じこもってしまうという話。

訳者あとがきによれば、法螺話というのは、だいたい語り手が奇想天外な行動をするものであるから、この「渦を巻く」のような静的な話は、その対極例と言えるろのこと。だが、螺旋状の貝が、浜辺で森羅万象の一体性を瞑想するといった内容は、動的な法螺話に劣らないものである。

<訳者あとがきから引用>
確かに、Qfwfqじいさんとカルヴィーノ氏とは、ひどくよくウマが合ったのだと思う。じいさんの羽目のはずしようを見ていると、まさにカルヴィーノ好みとしか言いようがない。じいさんが得意になって大風呂敷をひろげるのを見ていると、うまい具合にカルヴィーノに乗せられているな、と思われてくる。カルヴィーノも人がよいのか悪いのか、実に根気よく親切に、この気の良い老人と付き合っている。たぶん百科事典や、天文学・古生物学などの書物を漁って探し出してくるのだろうが、もっともらしい顔をして、興味をそそらせる学説やら仮説、あるいは数字をちょいと引用してみせる。すると、じいさんはてもなく罠にひっかかり、得々として、「そのとき、わしはそこにおったのだ!」と語りだす。


というわけで、宇宙を飛び回った時も、水の中にいた時も、恐龍であった時も、そして貝になってただじっと分泌しているだけの時も、いつだってQfwfqじいさんは「そこにおったのだ!」というのである。この大法螺吹きが、私は大好きだ。

2005年02月25日(金)
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