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 その名にちなんで/ジュンパ・ラヒリ

内容(「MARC」データベースより)
「ゴーゴリ」と名づけられた少年。その名をやがて彼は恥じるようになる。進学を機に、ついに改名。生まれ変わったような日々のなか、ふいに胸を刺す痛みと哀しみ。そして訪れる突然の転機…。ふかぶかと胸に沁みる長篇。


例によって不思議な感覚にとらわれている。インドから移民した人たちの話だが、前作の短編集 『停電の夜に』 でも感じた奇妙な感覚が、いまだに抜けない。アメリカに渡って、アメリカ式の家に住み、アメリカ人と同じように生活しているのだが、その中で相変わらずサリーを着ていたり、毎日インド料理を食べたりしているというのが、なんとも不思議なのだ。というか、その民族性に、こちらが慣れないのだ。

そこには、宗教の違いとか、文化の違いとか、いわずもがなの事実があると思うけれど、これはアメリカの小説なのだと思いながらも、でも違う。なんとも奇妙な感じがして仕方がない。アメリカにおける、ほかの民族には感じられない独特の感覚がある。

インドのサリー姿の女性は、痩せていようが太っていようが、皆エキゾチックできれいだなと思うのだが、先日1台の車に5、6人がぎゅうづめになって乗っている光景を見て、なんて濃い空間なんだろうと思った。一人一人は、サリーもきれいだし、彫りの深い顔が美しいのだが、集団になると、まるでそこがブラックホールのように密度が濃くなっている感じがする。

うまく言えないのだが、インド系の小説(ほとんど読んだことがないので、ジュンパ・ラヒリの小説と言ったほうがいいかも)には、そういった密度の濃さを感じる。アメリカで生まれた子どもたちは、アメリカ式の食事をしたりしていて、キッチンにはアメリカのブランドの食品が並んでもいるのだが、そこに、どうやっても消せないカレーやスパイス、タマネギや唐辛子、マスタードオイルの匂いが存在する。

日本人がアメリカで暮らしても、やはり日本食は食べるだろう。たまにはキモノも着るかもしれない。でも、インドの人のように、かたくなに母国の習慣を守るということはないだろうと思う。「郷に入れば郷に従え」というようなことわざは、インドにはないのかもしれない。

ジュンパ・ラヒリは、奇想天外なことが書いてあるわけでもないのに、淀みのない文章で一気に読ませる、とても上手い小説家だと思う。日本語版の読みやすさは、翻訳家の力によるところも大きいだろうとは思うが、一つのパラグラフが長い割には、途中でうんざりすることもなく、流れるように進んでいく。およそ女性作家らしからぬ作家(これは褒め言葉だ)だと思う。

ただ、当たり前かもしれないが、どうしてもインドの匂いがつきまとう。だからこそジュンパ・ラヒリなのだと言えるのだろうが、私はその部分に、いまだ奇妙な感覚を消せず、なにやら落ち着かない気分になる。

そんな感覚にずっと包まれながら読んでいたが、この小説は「面白かった」と表現すると、なんだか違うような気がする。感動とも違う、胸が痛くなるような小説だった。

本当は、二つの大陸で生きたインドからの移民ということについても書くべきなんだろうけれど、個人的には主人公のゴーゴリというよりも、その両親のアシマ(母)とアショケ(父)のほうへの感情移入のほうが大きく、自分の両親について、ゴーゴリの両親のように、彼らにも彼らの人生があったのだなどと考えたことがないという事実に愕然とした。私は父や母について、父と母であるという以外に、ほとんど何も知らないのだ。

以前、父の短歌帳を見たときに、心臓をぐっと掴まれるような衝撃を感じたことを思い出した。弟が結婚するときのことを詠んだ歌に、「息子はなんて楽しそうなんだろう、自分の青春時代は戦争ばかりで、あんなに楽しそうにすることはなかった」といったようなことが書かれていた。その時、父にも弟と同じ年頃、同じ感情を持った時代があったのだと、青天の霹靂みたいに思ったのである。戦争が、父のそういった青春を全部奪ってしまったのだと、自分のことのように悔しい思いがして、涙が出た。

ゴーゴリの両親同様、私の両親も見合い結婚だったから、恋愛もせずに結婚するとは、一体どんな感じなんだろう?と不思議にも思っていたが、昔はみなそうだったんだくらいにしか思っていなかった。しかし、そういう結婚をして、家族を大事にするという責任感は、今の人たちよりもずっと強かったに違いないと思う。恋愛だろうが、見合いだろうが、結ばれる運命というものがあるならば、恋愛が絶対条件ではないはずだ。もっと強い絆があるに違いない。けれども、父や母にそんなことを聞いてみるようなことは、ついぞなかった。

そんな風なことを考えながら本を読んでいたら、ゴーゴリの父親が死んだところとか、プレゼントされた「ニコライ・ゴーゴリ短編集」に書かれていた父親の文章を、ゴーゴリがまるで初めて見るかのようにショックを受けながら読んだところとか、子どもがいかに親のことを知らずにいるかということを思ったら、本当に悲しくて仕方がなかった。その父親は、穏やかで責任感のある立派な父親だった。嫌で嫌でたまらなかったゴーゴリという名前にも、実は深い、深い意味があったのだ。

『停電の夜に』 の表題作では、そのへんのロマンス作家ならば、堂々と長編小説に、それも上下巻にもしてしまうような話を、無駄をそぎ落として短編にまとめあげた手腕はたいしたものだと感じたが、今度は長編ではあるが、なおかつそうした短編がたくさん詰まっているかのような感じを受けた。

2004年12月02日(木)
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