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■ カスターブリッジの市長/トマス・ハーディ
内容(「MARC」データベースより) 酒に酔った勢いでヘンチャードは妻と娘を見知らぬ男に売り飛ばす。深く反省した彼は18年後、カスターブリッジという町の市長となっていた。そこにかつての妻と娘が姿を現す…。1971年刊の再刊。
「情熱の荒野」ウェセックスの噴火のような魂をもったひとりの男ヘンチャードは、その烈しい魂のゆえに、世の「おきて」によってしだいに身を滅ぼしてゆく。しかし、彼は、そうした運命のもはやどうにもならぬことを明白に認めたあと、わずかに残された人生の終章を、運命を見すえながら、みごとに演じ抜いているのである。運命は、巨大な、人間の手のとうてい及ばぬ、ある絶対的な力である。そうした運命の前にひきすえられ、人間の無力を、打ちのめされるようにしかと思い知らされながら、しかもその無力にたじろがぬ、たくましいヘンチャードの最後の英雄的なすがたは、近代の悲劇とはあきらかに異なる強い感動をもって、われわれに、ソポクレスのオイディプース王や、シェイクスピアのリア王を思い出さずにはおかないであろう。 ─(解説/上田和夫)
この物語は冒頭から衝撃的で、酒に酔った夫が、妻と子を見知らぬ男に売り飛ばすところから始まるのだが、その後意外にも早く彼らは再会する。「妻と子を売り飛ばす」ということについて、終始するのかと思っていたら、実はそうではなく、その後の展開もめまぐるしく、読者を飽きさせない、いかにも物語らしい物語だった。
もちろん「妻と子を売り飛ばした」という事実は、主人公ヘンチャードに死ぬまでつきまとい、その若気のいたりの酒の上の出来事が、彼の一生を苦悩と孤独で覆っていくのだが、タイトルにあるように、カスターブリッジという小さな村の市長になるまでは、運命は上向きで、順風満帆に進んでいたといってもいい。けれども、売り飛ばした妻と子に再会してから、彼の運命は、その罪を償うかのように、下降し始める。
私はヘンチャードが酒の上の過ち以外、他には何も悪い事をしていないように思うのだが(事実、その後彼は21年間、神に誓って酒は一切口にしなかった)、運命としか言いようのない人生の転落に、ただただ過酷な神の裁きのようなものを感じて、たしかに非道なことをしたと思うのだが、ここまで打ちのめさなくても・・・と、むしろ大いに気の毒になってしまったくらいだ。
訳者の解説にあるように、ヘンチャードの最後は感動的で、死んでもなお許されず、絶対的に孤独であるという運命に、全身が震える思いで、涙した。その運命に逆らうことなく、真っ向から受け入れたヘンチャードには、たとえどんな罪があろうとも、魅力を感じずにはいれない。
一方、ヘンチャードの愛人(とはいえ、妻子を探し回ったあげく死んだものと諦めた後のことなので、愛人という呼び名はふさわしくないかもしれない)ルセッタや、スコットランドから来たやり手の青年ファーフレーなどには、全く魅力を感じなかった。
ここにヘンチャードの娘エリザベス=ジェイン(のちに実の娘は死に、妻と娘を買った男との間に生まれた娘だと知るのだが)が加わり、この4人の間にさまざまなドラマが生まれるのだが、ルセッタやファーフレーがいなければ、こんなに過酷な運命にはならなかっただろうと思うと、なんと不運なめぐり合わせなのだろうと思う。
いかに罪深い主人公でも、読者はヘンチャードと一緒に嘆き、苦しみ、孤独な思いを味わう。描かれているエピソードは、なにも特別な出来事ではなく、世の中によくあることで、そのひとつひとつが誰にでも理解できる状況だと思う。しかし、それらが全部一人の人間に関わってきたとき、ましてや拭い去ることのできない罪の意識を抱えていた場合、いかに孤独を味わうものなのか、それは想像を絶するほどだった。以下に記すヘンチャードの遺言には、絶句であった。
マイケル・ヘンチャードの遺言
わしの死んだことをエリザベス=ジェイン・ファーフレーに知らせたり、わしのために悲しい思いをさせぬこと。 神聖な墓地にわしを葬らぬこと。 寺男に鐘を鳴らさせぬこと。 だれにもわしの死骸を見せぬこと。 葬式にはだれも参列させぬこと。 墓にはどんな花もそなえぬこと。 だれもわしを思い出さぬこと。以上のことに署名する。
マイケル・ヘンチャード
2004年09月29日(水)
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