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■ Summerland/Michael Chabon
<邦訳上巻> 内容(「MARC」データベースより) 気弱な少年イーサンは、野球の試合でいつもエラーばかりしていた。そこに野球好きの妖精があらわれ、自分たちの世界を救ってほしいという。不思議な仲間たちとの旅がはじまった。冒険ファンタジイ。
<邦訳下巻> 内容(「MARC」データベースより) 世界を滅ぼそうとするコヨーテのせいで、妖精たちの世界はめちゃくちゃになっていた。イーサンは仲間たちと力を合わせて、野球で戦いつづける。そして、ついに最後の試合が開始された。イーサンたちは勝利できるのか? <邦訳> ●サマーランドの冒険〈上〉 ●サマーランドの冒険〈下〉
<あらすじ>
夏には雨の降らない不思議な場所サマーランド。そこには球状があり、いつもリトルリーグの試合が行われている。11歳の少年イーサン・フェルドは、リーグの<ルースターズ>の選手だが、いつもエラーや三振ばかり。おかげでチームは連敗中だ。
そんなイーサンのもとに、ある日突然キツネ男のカトベリー(別の世界に自由に行き来できるというシャドーテール)が現れる。そして、世界は滅びつつある、一緒に自分だちの世界に来て欲しいと言う。カトベリーの説明では、イーサンたちのいる世界=ミドルランドのほかに、カトベリーたち妖精のいるサマーランズ、世界を滅ぼそうとしている悪人コヨーテのいるウィンターランズ、そして封印された世界の3つの世界が存在し、そのすべてがコヨーテに消し去られようとしているのだそうだ。
一方、イーサンの父親がコヨーテの手下に誘拐されてしまう。世界を守り、父親を救うために、イーサンはコヨーテの居場所を目指してサマーランドからキツネ男たちの世界サマーランズへ飛び込み、旅を始めた。道連れは、ルースターズのチームメートのジェニファー・T(インディアンの血筋の女の子)とトール(実はフェリシャーとの取り替え子で、カトベリーと同様のシャドーテール)、そしてフェリシャーという妖精の一種で3つの世界のホームラン王でもあるシンクフォイル。一向は巨人に出会い、食われそうになるが、イーサンが野球で戦い、見事に勝利した。そして、巨人にとらわれていたタフィーを仲間に加える。
喜びも束の間、今度はタンポポの丘族というフェリシャーたちにつかまり、地下室に閉じ込められる。フェリシャーたちに弓で射られたシンクフォイルの傷を治すために、イーサンが持っていたトネリコの枝が必要となり、トールの不思議な力を借りて、丘の中の探索に出かけたイーサンとトール。しかし、冷たい声の主に見つかってしまう。
その後、イーサンたちは仲間を加え、トネリコの枝をバットに作り変え、野球チームとして様々なチームと試合をしながら道を進んでいく。道を進みながら、イーサンは様々なことを学んでいく。親子の愛情、人を信じる心、物事を冷静に判断する力などなど・・・。最後にコヨーテたちと試合をし、イーサンたちが勝ったことで、世界は救われる。
<サマーリーディング>用に読んでいた、マイケル・シェイボンの『Summerland』を、やっと読み終えた。シェイボンが自分の息子たちのために書いたというだけあって、内輪ネタである。自己満足の世界。
普通、自分の子どものために書いた本というのは、ただ子どもに楽しんで欲しいという愛情が原点で、仕事とかお金とかがからんでいないから、だいたい面白いものなのだが(トールキンの『指輪物語』も、『ハリー・ポッター』もその類)、シェイボンの場合、仕事やお金がからんでいないと、際限なく自分の好みに走ってしまうんだろうなあという感じ。シェイボン一家には面白いネタでも、読者にとっては不要という部分も多々ある。
つきつめて言えば、話が洗練されていない。シェイボン一家が面白いと思うものは、何でも詰め込んである。そういうことは、一般の日常生活の中にはよくあることだが、とりあえずシェイボンは、プロの作家だし。
シェイボンの知識の豊富さは驚くほどだし、頭脳の中身も並ではないと思うのだが、同じく知識が豊富なトールキンなどとは全く異なる次元のような気がする。もともとシェイボンの作品には、ファンタジックな部分があると思うが、正真正銘のファンタジーは向かないと思う。トールキンのように、すっかりその世界にはまりきれないところがある。
ファンタジーは荒唐無稽でいいのだから、「・・・なんて、それはちょっと大げさだろう」などというのは不要なのだ。「・・・」の部分で止めておけばいいのに。大げさでも、とんでもないホラでも、そもそもがファンタジーなのだから、そんなことはどうでもいいんじゃないかと思う。むしろ、いかに荒唐無稽か、そちらのほうを楽しみにしていたのに、と。
そういう意味では、併読しているロバート・オレン・バトラーの『奇妙な新聞記事』のほうが、はるかにファンタジーとしての要素が濃い。第一印象で、「これはカルヴィーノじゃないか!」と思ったように、こちらのほうが数倍荒唐無稽である。シェイボンの非凡さは認めているものの、彼は児童向けのファンタジーには向かない、どちらかといえばSFのほうがいいんじゃないかという気がしてならない。彼の興味は、一般に言うファンタジーではなく、SF的幻想なのだと思う。
ま、我が子のために書いたのだから、自分の子どもさえ気に入ってくれればいいんだろうけど、期待していただけに、ちょっと残念。無理やり言うなら、『カヴァリエ&クレイの驚くべき冒険』を読みやすくした(『カヴァリエ・・・』のほうがはるかにいいが)感じ?そこに、子供向けということで教訓めいた話がちらほら見えていて、それもまたシェイボンらしからぬと思う部分なのだ。
<読書途中のメモ>
シェイボンは好きな作家だが、どうもマニアックに書き込みすぎるきらいがある。それが気にいれば問題ないのだが、本書は児童書で、そういうマニアックな部分は必要ないだろうという気がしている。シェイボンのマニアックな書き込みは、それが彼の特徴であるとも言えるし、つぼにはまれば、すごく面白いと思うのだが、こんなこと書いてるから、児童書なのに、こんなに分厚くなってしまうんだぞ!と。
これは、本が面白くないと言っているわけではない。野球の話だが、私は野球は好きだし、十分興味を持って読めるのだけど、児童書であるということを考えると、ちょっと削ったほうがいいんじゃないかと思う部分がたくさんある。児童書だから簡単な文章でいいというわけでもないし、どこがどうシェイボン的マニアックなのかと言われると、ここがそうだとはっきり言えないのだが、そういう部分があるおかげで、遅々として進んでいかないのだから、困ったものだ。これは悪い意味で困っているのではなく、そういう部分に、その都度感服してしまい、何度も読み直したりしてそこで止まってしまうから、困ったものなのだ。
シェイボンの知識の豊富さにはいつも感服するし、この人の頭の中身はどうなているんだろう?という驚きもあるのだが、こと本書に関しては、そういう部分はあまり必要がないと思うし、それぞれ面白い知識だとは思うものの、話の思考を妨げている。それに4つの世界の構成や、繋がり方、ミドルランドとサマーランズの共通性などなど、今ひとつ練れていないようにも感じる。
シェイボンはこれまでの作品にもファンタジー的な要素を感じさせてきたが、正真正銘のファンタジーであるとする本書では、むしろ逆に現実から離れられない面が見えてしまう。完璧にファンタジーの世界に浸りきっていないような感じがする。知識の豊富さということで、トールキンとも肩を並べるだろうが、トールキンとシェイボンの頭の中身、思考のプロセスは全く異質のもので、架空の異世界を描くのには、シェイボンは不向きかもしれない。壮大さとは無縁な、SF的なマニアックな記述が、シェイボンの持ち味なんだろうと思うので。
2004年09月10日(金)
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