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 吸血鬼ドラキュラ/ブラム・ストーカー

内容(「BOOK」データベースより)
トランシルヴァニアの山中、星明かりを封じた暗雲をいただいて黒々と聳える荒れ果てた城。その城の主ドラキュラ伯爵こそは、昼は眠り夜は目覚め、狼やコウモリに姿を変じ、人々の生き血を求めて闇を徘徊する吸血鬼であった。ヨーロッパの辺境から帝都ロンドンへ、不死者と人間の果てしのない闘いが始まろうとしている…時代を越えて読み継がれる吸血鬼小説。


●近代ヨーロッパにおける吸血鬼小説

最初の小説は、ジョン・ポリドリの”Vampyre”だというのが、今日では定説になっている。1817年の夏、スイスのバイロンの別荘にいた、バイロン、シェリー両詩人のもとへ、ゴシック小説「マンク」の作者、マシュウ・グレゴリ・ルイスが訪ねてきて、きみたちもドイツの怪奇ロマンの向こうを張って、ひとつ怖い小説を書いてみないかと勧めたのが動機で、バイロン、シェリー、シェリー夫人が競作をした結果、ひとりシェリー夫人だけが、名作「フランケンシュタイン」を書き上げたという話は、今日では誰でも知っている有名な話だ。そのときのバイロンの構想をそのまま借りて、曲がりなりにも一編をものしたのが、ポリドリの「吸血鬼」である。この作品は雑誌に発表された時、偶然か故意か、編集者がバイロン作として掲載したためにたいへんな評判になり、怪奇小説の本家であるドイツはもとより、フランスでもさっそく翻訳が出て、テオフィール・ゴーティエなどもそのブームに刺激されて、新しい吸血鬼小説を書いたというほど、舞台に、小説に、ほとんどヨーロッパ全土の都市に猛烈な吸血鬼嵐を巻き起こした。


●「ドラキュラ」を書いた動機

それについては忘れてならないことが二つあるが、特にその一つがレ・ファニュの「吸血鬼カーミラ」である。
この同郷(アイルランド)の大先輩である人気作家の作品は、これも当時のスリラー人気作家ウィルキー・コリンズの作品とともに、ブラムは以前から愛読していたが、「カーミラ」を読んだときに、衝撃をおぼえ、イマジネーションに火をつけられたような興奮を感じ、「これだ!よし、これで行こう」と思い決めた。慎重な数年の日子をかけて、1897年にこの本が売り出されたときには、たちまちイギリスの読書界に一大センセーションを巻き起こし、本は旬日にして版を重ね、ロンドン市民を夢魔の恐怖のうちに震撼させたということである。今日では世界の津々浦々にいたるまで、この作品を読むか見るかしない日とはほとんどないというまでに流布したことは周知のとおり。「ドラキュラ」のあとに吸血鬼小説なしというありさまで、文字通り世紀の傑作の名に恥じないことは、なによりも作品自体が雄弁に証明しているようである。

─以上は訳者解説より抜粋


そもそも私は怖がりなので、他の人が読んでもたいして怖くないと思うものでも怖い。というわけで、ドラキュラは怖かった。吸血鬼そのものが怖いというのではなく、暗闇、うごめく霧、墓場、死人などなどのシチュエーションがひたすら不気味で怖い。ただ、ドラキュラに立ち向かうヴァン・ヘルシング教授、ジャック・セワード、アーサー・ホルムウッド(婚約者ルーシーを吸血鬼にされた)、キンシー・モリス、そして最初にドラキュラ城に足を踏み入れたジョナサン・ハーカーとその妻ミナの、ひたすら前向きな、人類のためにドラキュラに立ち向かう姿が非常に勇敢で、陰惨なシチュエーションを救っている。高潔な女性ミナにまで魔の手を伸ばしたドラキュラだが、団結した彼らの前に、ついには粉塵となって消え去るのだが、日増しにドラキュラの手中に落ちて行くミナの心の葛藤が痛々しい。

ウィルキー・コリンズの記録体(ドキュメンタリ)形式を踏襲することで、日記風手記の集合体という形になっているのが、最初は読みにくいと思ったが、怖いもの見たさでどんどん進んだ。そうするうちに、日記風の形式を取らざるを得なかった理由もわかってきて、最後には形式はまったく気にならなくなっていた。ところどころ不要な箇所もあるような気もするが、全体として見れば、面白かった。数ある吸血鬼小説の最高傑作とされるだけの読み応えはあった。

<メモ>
本名はエイブラへム・ストーカー(1847年11月、アイルランド、ダブリン生まれ)で、ブラムは略称。

2003年10月12日(日)
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