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 さくらんぼの性は/ジャネット・ウィンターソン

内容(「BOOK」データベースより)
時は十七世紀、所は疫病とピューリタン革命の嵐渦巻くロンドン。象をもふっ飛ばす未曽有の大女ドッグ・ウーマンと拾い子ジョーダンは、自由の天地をめざし、幻の女フォーチュナータを探して時空を超えた冒険の旅に出る。英国の新鋭が放つ奇想天外にして感動的なベストセラー。

<訳者あとがき>
『さくらんぼの性は』は幻想とユーモアと残酷に彩られた、マジカルで美しい小説である。物語の舞台は17世紀半ば、ピューリタン革命の吹き荒れるロンドン。象を空に吹っ飛ばすほどの怪力で、口の中に一度に12個もオレンジを入れられるほどの巨体の持ち主である“犬女(ドッグウーマン)”は、ある日テムズ川の真っ黒な泥の中で赤ん坊を拾い、自分の子として育てる。その息子ジョーダンは成長して船乗りとなり、言葉の都で出あった幻の女フォーチュナータを追い求め、失われた“もう一人の自分”を追って旅に出る。いっぽうの犬女は、革命で殺された王の仇を討つために、ピューリタンを相手に奇妙な復讐劇を開始する。さらに、それと呼応するように現代でも物語が進行しはじめる。船を愛し、海軍に入隊する青年ジョーダンと、心の中に巨人の女が住みついた女性化学者が、運命の糸にたぐりよせられるように出会い、ここでもまた新たな冒険がはじまる。犬女とジョーダンの旅はいまも続いている・・・。

が、この小説は、実はそのような“あらすじ”を拒んだところで成り立っている。物語は過去、現在、未来を自在に飛びまわり、現実と幻想、歴史と寓話のあいだを揺れ動き、ナイーブな純愛と血みどろの殺戮、ラブレーばりのホラ話と哲学的考察が互いにしのぎを削っている。本書に限らず、ウィンターソンの作品には筋書きらしい筋書きは存在しない。ストーリーはまるでカードをシャッフルするように切り刻まれ、並べ替えられる。

つけ加えておくと、この小説は丁寧な時代考証の上に成り立っている。チャールズ王の処刑の模様や王党派とピューリタンの内戦、ロンドン大火や疫病の流行などはすべて史実に忠実である。




これは、まさに訳者あとがきにあるような小説で、哲学とおとぎ話にエログロが混じったものといった感じ。これを「幻想的で美しい」と感じるか、私のように「手袋とマスクをしなければ読みたくない」と思うか、それは個人の好みなので何とも言えないが、私の場合は、エログロの部分が生理的にダメだった。

ピューリタン革命を舞台に・・・ということで、先日映画『クロムウェル』を観たばかりなので、とても興味があったのだが、確かに史実に忠実だとは思ったが、それは幻想と対比させるための現実として用いられた、わざと史実に忠実に書かれた部分なのだろうか?チャールズ王の処刑に関するところなどは、驚くほど映画と同じだったし、ピューリタン革命について調べた『クロニック世界全史』にもぴったり符号していた。

ただしこの物語の中では、クロムウェルをはじめとするピューリタンは悪役で、映画で見たクロムウェルのイメージには程遠い。たしかにクロムウェルは善良で立派な人物と言い切れる人間ではなかったようだが、イギリスの歴史の中での認識は、どんなものなのだろう?処刑されたチャールズ王も、けして国民に慕われてしかるべき人物とも思えないのだが。しかし、チャールズ王の処刑のときの態度があまりにあっぱれであったため、誰しもがクロムウェルやピューリタンたちに、疑問の目を向けたであろうことは、想像できる。

かといって、ピューリタン革命がこの物語の中で重要な役割を果たしているとも思えず、やはり先に書いたように、幻想との対比のために用いられたとしか思えないのだ。

ところで、私が読んだ本は単行本で、表紙にパイナップルの絵があった。タイトルにある「さくらんぼ」はどこに出てくるのだろう?と思っていたが、バナナとパイナップルは出てきたものの、さくらんぼは遂に出てこなかった。ストーリーもあるのかないのか不明だが、タイトルもまた不明のまま。

しかし、おとぎ話を題材にすると、なぜどれもこれも同じように「グリム童話的」になってしまうのだろう?それが不思議。


2003年07月29日(火)
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