映画「玄牝」を観にいった。
自然出産を題材にした ドキュメンタリー映画である。
出演されている 80歳の吉村先生が 車いすでこられて 会場の人たちとの お話会もあった。
映画では 吉村医院で出産すると決めた 妊婦たちのさまざまな思いや 畳の上での出産のシーン そこにたちあう家族たち 吉村先生自身の生き方
生と死の間の人生の物語が 空や木や風や太陽の気配の中に やさしくつつまれていた。
*
今朝めざめたときに ふとおもいだした風景があった。
曇り空のした つづく一本道。
なんともいえない さみしい気持ち。
母が双子を妊娠したのは わたしが4歳の時だった。
母のお腹が大きくなっていく様子を 身近に感じていた。
「うごいてる?」といって さわったり 耳をくっつけて 音をきいたり
4歳のわたしは わたしなりに とても楽しみにしていた。
だんだんお腹が おおきくなってきて もうすぐ生まれるんだよ というのをきいていて
わたしの わくわくも どんどん大きくなっていった。
そして ある日
もう生まれる!という段になって 母は父につれられ 病院にいってしまった。
わたしも 一緒にいきたくて いきたくて
だけど
「さとみは おうちでまっていなさい」
といわれて 祖母に手をつながれて
父と母の車を 見送った。
車がみえなくなっても しばらくそこにたっていて
そこには 曇り空と 父と母がいってしまったあとの 一本道。
父や母と一緒に 楽しみにして 待ちにまっていた 一番大切な瞬間を
わたしだけ みせてもらえない という
仲間はずれの さみしい気分だった。
子どもだから という理由で 対等に扱って もらえなかった…という 気持ちだった。
あの気持ちを わすれていたけれど
今回の映画をみて
出産という 神々しい瞬間に たちあっている 小さな兄弟たちをみて
うらやましいなあと おもったのだ。
それで 今朝 あの風景と あの気持ちを おもいだしたのかもしれない。
数日後 母が病院から 戻ると
おなかの中にいた 双子は
ひとりは赤ちゃんになって わたしの妹として おうちにやってきた。
もうひとりは 青い小さな骨壷の中に入って やってきた。
青い骨壷の中身を
みたくてみたくて
みせてと たのんでも
ダメだと言われた。
大人はみているのを 私は知っていて
なんで こどもだからって だめなんだと
またもや さみしい気持ちに なった。
両親には いろいろな おもいや いろいろな 理由は あったのだろう。
でも
こんな 近くに いたのだから
ちゃんと この目で
命がやってくる 神聖な瞬間や 命がなくなるということを ちゃんと みて 感じたかった。
ちゃんと かくさずに みせてほしかった。
対等に 扱って もらいたかった。
そう おもった。
いまの日本の生活では 死について ふれたり 味わったり する機会が 極端に少ないように おもう。
いま自分が ここに存在して 生きているとは どういうことか。
死ぬこと 生きること
それは 人間が コントロールできることではなく
それを つかさどっている 大きな流れが あるということ。
もっと そこに 目をむけて 感じながら 生きていきたいなあと おもう。
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