「嗤う伊右衛門」を観た。

 昨年12月に見た蜷川幸雄さんの「ハムレット」のお芝居、冒頭に流れるジャズは、ワタシの記憶が確かならば、映画「死刑台のエレベーター」(1957年フランス)の曲じゃなかったかなァ…。マイルス・デイビスですね。
 手元にサウンドトラックがないので確認取れないのですが。
 舞台は、客席中央にステージをつくり、本来ステージだった部分に客席を設けた多面的な構造。抑圧的な空気のなか、役者の動きがよく考えられ、きちんとコントロールされていたのが印象的でした。


 と、そんなことをぼんやりと思い出したのは、先日シネアートで「嗤う伊右衛門」(蜷川幸雄/2003年日本)を観たから。
 原作は云わずと知れた京極夏彦さんの同名小説。京極夏彦さんの著作のなかでも最も忘れ難く美しく、ワタシは勝手に最高傑作だと思っていたりするのですが。


 さて、映画。
 面白く観ました。
 映画中盤まではキリキリと緊張感の糸を巻くように、キチンと抑制されていてよかったのですが、どうもクライマックスあたりからグダグダというかグズグズというか。高めた緊張感が空中で、有耶無耶に霧散されてしまう。それも悪くはないのだけれど、不完全燃焼というか消化不良というか。無理矢理終わらされて、取り残されてしまった感じがしたのです。
 中盤までは確りコントロールされていただけに、惜しい。


 私は映画を観る前に仕入れた情報は、観る段になるとスッパリ忘れるというオメデタイ人間なので、今日改めて原作を読み返して気付いたのですが、台詞は実に原作に忠実です。
 しかし原作に忠実である、ということは、反面、小説の台詞のない部分(で尚且物語の進行から切り離せないところ)は、ト書き、つまり映像や映画話法で解決しなければならない、ということであり。それに成功していたかは、やはり「映画と小説はベツモノ」ですし、ここで兎や角云うべき問題ではないのでしょう。


 カメラがよく動くのが気になりました。
 クレーンやドリーを多用しているのかな、技術的なことはよくわからんのですが。監督は多面的、立体的に見せることに、なにやらコダワリがあるのでしょうか。確かにこれは映画ならではの手法だとは思いますが…ラストのVFXといい、そんなに技術に拘らなくても、などと考えてしまうのです。
 寧ろ「物語」そのもの、の方が大事ですよね。
 お芝居と映画が違うということは、観客は、観客こそが、ようっくわかっていると思うのですけれど。

 否、蜷川幸雄さんの舞台をそれほど観たわけでもなく、3本しかないフィルモグラフィも「魔性の夏 四谷怪談より」(1981年日本)しか観ていないのでエラソウなことは書けないのですが(その割に結構書いてますが)。


 岩役の小雪さんは、凛とした佇まいが、武家女らしく高潔で美しい。
 台詞は少し聞き取りづらいけど、ま、梅役の松尾玲央さんや直助役の池内博之さんに比べれば気にならない。彼の台詞には字幕が必要ですね。
 それにしても、いや〜唐沢寿明サン、イイですね。
 ここ数年の出演作というか、キャリアの積み方というか、イイなァ、イイ感じだなァ、と。
 うーん、脱がしたい…、ていうか引ん剥きたい。
 や、ヘンな意味でなく、もっと色々な表情を見たいという意味で(ダレに言い訳してるンだか)。
2004年02月15日(日)

メイテイノテイ / チドリアシ

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