私信

 私の日記は、自己表現、自己発現よりも、自分は何者かと、どういう人間なのか、ということを考え、分析することを、文字表現という手段を以って試みようと考えたことからはじめたものです。

 私は自分が何者なのかがわからない。
 如何なる人間だったのか。
 また如何なる人間になろうとしているのか。
 如何に生きるべきか。如何に生きようと望むか。
 なにを望み、どうするか。どう動くか。
 恐らく私自身の出自にも深く関わっているであろう、そんなことを整理するために始めました。
 が、以前にも書いたとおり、自分の感情を成文化するという作業を久しくせずにきたので、リハビリテーションも兼ね、日常的なことを書くことから始めるつもりで、「日記」という形式を選んだのです。

 そんなところから始まった独善的な日記はけれど、恐らくいままで書いてきたどんな文章よりも、偽りのないものだと思いますし、またそうありたいと思うのです。


 実は、公開することの是非は、未だに迷い悩むところではあります。
 公開する以上は無論、誰かが読むことを想定とはしていますが、その「誰か」は人格のある個人、ではなかったように思います。単に(恐らくのちに読み返すであろう未来の私自身をも含めた)客観性が欲しかったのかも知れません。

 けれど最近では読者の方から色々な意見やアドバイスを頂くことも増え、ときには励まされ、驚き、影響を受け、そしてそんな出会いの妙に感謝しながら、書いています。
 公開する以上はこれもまた自己発現に繋がるのだとは思います。
 が、自己発現、より、自己投企、でありたいと思います。
 もっともっと、影響されたいと思います。
 ひとりでうだうだと考えていても堂々巡りに陥るだけですものね。



 とはいえ「偽らざる自己」というのもナカナカ難しく、私の場合、まず一人称からして迷います。
 普段話すときは朝鮮語の一人称である「ナ」もしくは「チョ」なのですが、ただこれをカタカナで表記すると、どうも違和感がある。
 日本人と話すときは気をつけて「私」。
 けれどこれは普段使い慣れないせいかどうにも気恥ずかしく、文字にするときにはまた先生に提出する「作文」にならないためにも、あまり形式ばらずに書きたいと考え、そこで「ワタシ」とか「おいら」とか。

 そんな小さなことですが、書きつづけることによって自分自身が影響を受けることはあります。
 まぁ、それ以外はおおむね正直に書いています。
 「内面が文にひきずられる」とまでは思いませんが、正直でありつづけるためには、ことばにするときには気をつけたいと思っています。
 嘘から出た真、も悪くはないけれど、当初の目的からは外れていますしね。


 ……混乱してきました。
 あまりアタマがいい方ではないので、書いてるうちに時々何を書こうとしていたのか忘れます。
 スミマセン。
 それではまた、機会があれば。


 追伸:アンケートには回答させていただきます。
2003年11月15日(土)

メイテイノテイ / チドリアシ

My追加 エンピツユニオン
本棚