生きよ堕ちよ

 満員電車のなかで、ふと前に立つ男性の本が目に入る。
 日焼けした文庫本には、アンダーラインが引かれていていた。
 「ブンガクしてるなぁ」などとぼんやり思いながら、興味をそそられて何とはなしに活字を追うと、記憶にあるフレーズが目に飛び込んできた。


 
 戦争に負けたから墜ちるのではないのだ。
 人間だから墜ちるのであり、生きているから墜ちるだけだ。




 坂口安吾だ、とすぐに確信した。
 あまりにも有名な安吾の「堕落論」の一節だ。
 記憶とは不思議なもので、これを読んだ時間や場所までが鮮やかによみがえる。
 10年も前のことだ。
 けれどすぐに諳んじることができる。
 それほどに高校生のおいらには衝撃的だった。
 以下続く。


 
 だが人間は永遠に墜ちぬくことはできないだろう。
 なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くではあり得ない。
 人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、墜ちぬくためには弱すぎる。




 誰よりも人間の脆弱さを知りながら尚、安吾の生の意志は苛烈だった。
 安吾のその強靭な精神力と意志は、それゆえに高校生の私には辛かった。憧憬と羨望、諦観と共に封印した本にいま、こんなところで。
 不思議だ。


 帰宅後、ダンボールの山から文庫本を探し出した。
 私の本も相当に日に焼け、表紙が破れていた。
 いまは、10年前とは違う思いで読むことができる。


 
 生きよ堕ちよ、その正当な手順のほかに、真に人間を救いうる便利な近道がありうるだろうか
2003年11月08日(土)

メイテイノテイ / チドリアシ

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