ダメじゃん… |
学生時代は、たくさん文章を書きました。 読書感想文に、修学旅行の感想文、主張文、レポート、小論文、総括書。 ワタシは文章を書くのが嫌いではなかったように思います。
それは単に、数字を睨んだり、行ったことのない国や町の名前や名産品、金日成がいつどこでどうしたとかいう年号を覚えたりするよりは楽しく、また容易かったというだけのことであり、トリワケ得意だったわけではありません。 時折、教師の「こう書くべき」という言外の要望を感じ取り、そのとおりに書く自分にうんざりもしていました。 点数や成績、評価に執着はなかったけれど、そう書いていて誉められたのだから、それが「正解」なのだと思い、云われるままに書きました。
高校生の頃、日記を書き始めました。 あるとき、誰かに見られることや、添削されることを前提とした文章しか書けなくなっている自分に気づき、愕然となりました。 個人的な日記ですら、自分は誰かの目を気にして、上っ面の奇麗ごとしか書いていない。書けない。
読み返し、ひどくショックを受けました。 提出する作文と同じ。小巧くまとめた構成、課題通りに取り入れた比喩や慣用句、奇麗ごとのような当然の主張。 「こうあるべき」と用意された「正解」を書いた作文を、そのままトレースしたような文章でした。
落胆は深いものでした。 心から思うのは、小巧くまとめた優等生然とした「模範回答」より、慣用句や比喩はなくとも、漢字や送り仮名が間違っていても、ほんとうに心の底から生まれ出る直截なことばには敵わないということです。 羨望し、嫉妬し、そしてそんな文章を書き得ない自分に落胆しました。 ワタシは、「私」を書くことができない。 ワタシの中からは、ことばが生まれてこない。 文章が書けない!
それきり日記を書かずにきました。 けれど、高校を卒業して働くようになってからは、ビジネス文書や、親しい友人に書く手紙以外の文章を書く機会は皆無といってよく、自分の感情を成文化するという作業をしなくなって久しいことに気づきました。 「自分」の感情を成文化できない、「自分」を書けない、ということはつまり、「自分」が如何なる人間なのかがわからないということだと思います。
「私の言葉の限界は、私の世界の限界である」 といったのは、ルードヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン。 ならばワタシは、自分の世界の限界がどこにあるのかを知りたい。 自分という人間の世界の限界を確認していけば、おのずと自分の世界のかたちが見えてこよう。 自分という人間のかたちが見えてこよう。 だから感情の成文化は、やはり必要なのです。少なくともワタシには。
だったら日記さぼっちゃダメじゃん……。
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2003年10月25日(土)
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