大晦日は紅白みながらチョンを焼く

 同じ在日コリアンでも、3世や4世まで行くと、祭祀を嫌うひとがいるのだけど。
 割と好きです。
 ごはんおいしーし。

 まぁ、そう思えてきたのは最近なんだけどね。


 ワタシも10代の頃は、んー、なんていうンでしょ。人間はどこからきてどこへいくのか、とか、なぜ生き続けるのか、どう生きるか、などかウダウダ考えた時期が人並みにあったンだけど(今でも落ち込むとこういうことをボヤくけど)。
 おベンキョ(日本語と音楽だけ)は、まーまー好きだし、友人とも概ねうまくいっている。部活は楽しい。けどハッキョ(学校)の教育方針などに疑問を感じ始めたりしていた頃でもあってですね。

 色々悩むことが多くて忙しいのに、なんで会ったこともないじじばば(本家は更にそのじじばばまで)の祭祀までやらにゃならんのだ、と不満に思っていたわけです。
 死の悼み方ひとつとっても、個人個人にプロセスというものがあり、余人に強要されたくないし、またできるものでもない。それを強要されるのでムカついていたンですな。
 特に我が家の場合は、「やらなくてはいけないものだからやる」という感じで、そのプロセスに何の疑問をもたずにやっていたキライがあり、そもそも儒教のシステム自体若いワタシにはテッテー的に共感しかねる部分があったので、それも気に入らなかった。

 そんで母とは衝突が耐えなかったわけですが、今考えると、アレだね。
 他人を思いやる余裕のない10代の潔癖さってのは、多感かも知れないが、鈍感だなあ。
 自分がゼッタイ正義だと信じてこそいないけど、なるべくパーフェクトであろうとし、他人の方法を否定するというのは、鈍感だ。
 今は少し恥じ入る。



 しかし未だに悩む、というか困る。

 人間の信仰や、それに伴うモラル、或いは伴わないモラル。
 その相違に、人間はどこまで寛容になるべきか。


 …いや、違うな。

 異なるモラルを持ちながら、どこまで相手を容認するか。
 すべきか。
 できるか。
 そしてその方法。

 容認できないとすれば、どうするのか。
 すべきか。
 できるか。
 そしてその方法。


 永遠の課題のような気がする。



 いま、朝鮮儒教式の祭祀を好きだと云えるようになったのは、死と死者の前に、個人の好き嫌いや、モラル、そしてプロセスの相違なんつーのはどうでもいいのではないか、と。
 それがイヤだと排除するのは、単なる我侭なのではないか、と。
 そう思うようになったからです。

 朝鮮儒教もそう悪いもんじゃない。
 年上の前でも酒飲むけどね、はっはっは。
2002年12月05日(木)

メイテイノテイ / チドリアシ

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