2003年02月11日(火) |
『蝋梅3』(オガヒカ小ネタ) |
「…ヒカル…」
どこかで自分の名前を呼ぶ声がする。 以前は、しょっちゅう佐為に呼ばれていた。あまりに名を連呼するものだから、犬じゃないぞ!と怒った事もある。
19歳になった今、名前を呼んでくれるのは、両親くらいのものだ。隣の幼なじみは短大に行ったきり、会うことはめったになくなってしまった。 いや…もう一人いる。自分よりもひとまわり大きな腕と胸で、力強く抱きしめながら……大きな骨ばった手が、顎をとらえ、心の中に染み通るように、囁いてくるのだ。低く、濡れた声で…………
「ヒカル…ヒカル?」
その声が現実のものだと気づいた時、ヒカルの目の前には緒方が立っていた。 「あ……あれ?緒方さん、もう着いてたんだ?」 「ああ。道がすいていたから、予定より早く着いたんだ。お前こそどうした?丁度3時だ。時間通り来るなんて。おかげで京都は雪になるぞ」 くつくつといつもの皮肉めいた笑みを浮かべて、緒方はヒカルをからかう。 「ひっでーなー。俺だってたまには時間より早く来るよ。…ちょっとこの花に見とれてて、時間経っちゃったけど」 「……花……蝋梅か」 「うん。昔さ……この花の名前を教えてくれた人が言ってたんだ。春の訪れを、香りで知らせてくれる花だって……」 「ほう…なかなか風雅な奴じゃねえか」 「そうだな……俺の知らない事、いっぱい教えてくれたよ」
現代のことは何も知らなくて、俺がたくさん教えたんだけど……
『ヒカル、ヒカル!これは何ですか?!』
まだ鮮明に覚えてる、澄んだ声。 ヒカルは寂しげに微笑んだ。 緒方はその表情に気づきはしたものの、何も言わずに、蝋梅の花に手を添えた。 「塔矢先生から聞いたことがあるが、この花びらがまるで蝋細工のように見えるから、『蝋梅』と名付けられたんだそうだ。中国原産だから、『唐花』ともいうらしい」 「へぇ……塔矢先生、流石物知りだね」 「先生の家の庭にもあるからな。見た事ないのか?」 「見られる訳ないじゃん!あの家に行ったら、すぐ塔矢に碁打ち用の和室に引っ張りこまれてさ!塔矢先生がいたら先生と対局だし……オレ、あの家は玄関と和室とトイレくらいしか知らないよ!!」 眉をしかめて文句をたれるヒカルに、緒方はくつくつと笑う。その光景が目に浮かぶようだ。 「…まぁ、アキラ君ならそんなもんだろう。あの家では、それだけ知っていれば十分だ。言っておくが、寝室まで知ってるなんてぬかしたら、ダダじゃすまないと思え」 ぐい、と顔を近づけられた。 ここが人目がある旅館の入口前だからこれだけで済んだが、そうでなかったら、身体ごと抱きしめて、引き寄せられそうな勢いだった。 途端にヒカルは真っ赤になる。 「し、知るかよ、そんなの!緒方さんならともかく、なんで塔矢の寝室なんか知ってなきゃいけないんだよ!!」 冗談じゃない!とまくしたてるヒカルの髪を、緒方はぐしやぐしゃとかきまわした。いつもは煙草の匂いがするそれが、今は、さっき触れた蝋梅の花のせいで、ふわりとした柔らかい香りがする。 「一応模範解答だな。ご褒美に、京都の老舗の和菓子を買ってやろう。…行くぞ」 緒方は先に踵を返した。ゆっくりとした足取りで、広い背中が離れてゆく。今日はスーツは茶色だったが、コートが白だったので、いつも見慣れた、白い背中だ。 普段はとんでもなく強引なくせに、時々、緒方はヒカルに選ばせる。夜、これ以上ないくらい束縛してくるくせに、ぽぅんと、放り出されるような感覚。 でも、そんな時に、ほっと息をついている自分も確かにいるのだ。ヒカルは、まだ、大きな秘密を抱えている。きっと、緒方はそれを知っているのだ。知っていて、しかし追求してこない。まるで、ヒカルが秘密を抱えることを、許すかのように。放り出すのは、緒方らしい優しさの形。 (放り出されて、「淋しい」とも、思ってるんだけどな)
離れて行く白いコートの背中に、ヒカルは呼びかけた。 「ねぇ、緒方さん!」 「…んだよ。置いてくぞ」 「俺に蝋梅の花を教えてくれたのはね、俺の…師匠なんだよ!」 師匠という言葉では陳腐なくらい一緒にいた佐為だけど、今はこう言わせてもらう。自分の囲碁の師匠は、間違いなく彼だから。 緒方は振り返った。コートのポケットに手を突っ込んだまま、ふうん、という表情で。 「ヒカル…蝋梅の花言葉、知ってるか?」 「へ?」 「蝋梅の花言葉は……『慈愛』だそうだ」
緒方がそうヒカルに告げた時。 ヒカルは、今にも泣きそうな、しかし極上の笑顔で駆け寄り、緒方の胸に飛び込んだ。
蝋梅は、ひっそりと咲いて、そんな2人を見送っていた。
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