2003年01月28日(火) |
『last summer 2』(プロローグ2) |
パスポートを申請し、ビザが下りるまでの時間、 俺はどうにかこうにか、仕事を片づけることができた。 出来上がったイラストを送った後、 次回の仕事の電話がかかってきたが、それは断わった。 …ようやく、イラストレーターとして名指しで仕事も入り、ひとりだちしかけた時 だったので、「もったいないなぁ」とは思ったけれども。 ニューヨークへ行く俺には、仕事を受けたとしてもそれを最後まで果せる自信がない。 ……時間も、ないし。
実際、一度体調を崩し、どうしようもない体のだるさと、背中の痛みに襲われて、パステルを持てなくなった。 机につっぷして、歯をくいしばって痛みを堪える。 何時間も続いたと思っていたが、痛みがやわらいで時計を見ると、10分しかたっていなかった。 病気は、確実に進んでいる。素人の俺にすら、そう自覚できるくらいに。
全く治療を受けていない訳ではない。一応、病院からは薬をもらっているし、定期的に注射も受けている。 放射線治療や、他の治療法もある、試してみる気はないのかと言われたが、俺はそれには首を振った。そして、ニューヨークへ行く事もその時話した。 主治医はため息をつきながら、しかし手早くニューヨークの病院の専門医に紹介状を書いてくれた。日本語もできる奴だから安心していい、と。 ――俺、一応英語は大丈夫なんだけどな。 内心そう思いながらも、主治医の心遣いに俺は黙って頭を下げた。
荷物をまとめるのはすぐに済んだ。 多少の衣類と、それからスケッチブック、24色の水彩色鉛筆と、パステル。それから水筆。そんなものだった。 祖父の知人からの話では、服は息子のものがあるから、それを貸すと言っていた。こちらに来るからといって、新品を買うのはやめた方が良い、という忠告つきで。日本人はカモにされやすく、狙われやすいんだそうだ。わざわざ「金を持っています」という格好をすることは、「狙ってください」と言っているのと同じことだという。 その一言だけでも、日本は平和なんだなぁ、と思った。
祖父には、「軽いから邪魔にはならんだろう」と、海苔を持たされた。本当は梅干しを持たせたかったらしいが、俺が嫌いなのを知っているので、あきらめたのだ。 「梅干しでは途中でビンが割れたりしたら大変だしな」…とかなんとか理由をつけて、自分を納得させようとしている姿が可笑しかった。
いよいよ、出発する日の朝。自分の部屋を見廻したが、あまり変わりばえはしない。いつも画材と資料でごっちゃまぜになっている机の上が、妙にきちんと片付いているくらいだ。まぁ、そんなにモノを持っていかないのだから、当然か。 これから、俺はニューヨークに行く。 多分、帰ってこられるだろうけれど、もしかしたら…これが、最後かもしれない。 なんとなくそう思った時、俺は、ふと思い出して本棚のアルバムを引っ張り出した。 そして写真を一枚、その中からはがす。 13年前、祖父が名人位を防衛した時、俺が中学に入学した記念を兼ねて、祖父と、両親と、俺との4人が写っているものだ。家の庭で、確か取材に来ていたプロのカメラマンが撮ってくれたような気がする。 これが、家族の写った最後の写真だった。
「ちょっとセンチすぎるかなぁ」
一人、笑いながら、しかしその写真を鞄の中にしまいこんだ。 ニューヨークに行ったら、まず最初にこの写真を入れるフォトフレームを買いに行こう。そう決めた。
そして、8月の末、残暑が衰えぬ晴れた日に、 祖父に見送られ、俺は、ニューヨークへと旅立った。
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