痒痛 ☆ 日記 
お酒と音楽と変人と。菫色の日々。

2005年05月06日(金)  note

もう 長いこと自分を信用していないので、ことあるごとに自分の感情を検証することは いわゆる癖であります。

以前からですが このところ とみにしばしば検証しているのは
自分は死んだ親友を 偶像視・神聖視してはいないか ということです。


・彼女は自分をほんとうに理解してくる世界でたった一人の人間であった
・彼女は十数年に渡る思い出のほとんどを共有できる世界でたった一人の人間であった
・彼女は自分の人生の喜び・幸せ部門の多くをになっていたのに無理やり奪われた人間であった

などなど。

いずれも、自分かわいそうモードに入ればコンマ0秒で簡単に自哀に陥ることができる罠であります。
コンマ0秒って、ニュアンスはわかるが無理な表現ですね。

アランの幸福論を読まずとも、情念に引きずられる怠惰さが、幸福から遠ざかることであることは
少しものを考える余裕のある頭ならば自分で考え付くことだと思います。
情念についてはそれだけではなく他にも考えることはありますが、ここは本題にもどりましょう。

自分が情念の虜となって、嘆いたり恨んだり呪ったりするのは
あくまでも娯楽として 自分をすっきりさせるため 深夜に自分の部屋で布団の中で
自慰として行うものです。
そこが、自分の人間としての貧しさなのか、限界なのか 他人の判断はおいておくとして、
それ以外は自分が許せないからやらないのであって なぜ許せないかといえば
人生に対する美意識に反しているからです。

政治的な信条も宗教の教義ももたない自分としては ほかに生きていくうえでなにを選択するか
指針とするものはそれしかありません。
美しいか醜いか 好きか嫌いか。

考えるに彼女とはそこのところで結びついていたと思うのです。

酔っているからか まとまらないな。

もちろん、彼女に死ぬまで話さなかった秘密や嗜好もあります。
彼女もわたしには話さなかったことがあることもわかっています。

とにかく 彼女がいなくなってからいわゆる
美しすぎる思いでのひと=自分の逃避対象
にだけはすまい と思ってきました。

でも、まだまだこっそり潜んでいたみたいです。
娯楽といいわけした情念の遊びのなかに。
いつのまにか肥大した悲劇的な別な彼女像をこしらえて隠していたみたいです。
具体的なきっかけなど わかるひとにはわかるかもしれませんが 結局はどうでもいいことです。
大事なことは自分の中に ソレを発見できたことです。
きっかけと検証のおかげです。
ぶちこわすつもりです。


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